ポツドール「夢の城」

ポツドール「夢の城」(新宿シアターTOPS)を観劇。

脚本・演出:三浦大輔
 照明:伊藤孝[ART CORE design] 音響:中村嘉宏[atSound] 舞台監督:清沢伸也
 舞台美術:田中敏恵 映像・宣伝美術:冨田中理[Selfimege Produkts]
 小道具:大橋路代[パワープラトン]  衣装:金子千尋
 演出助手:富田恭史[jorro]、尾倉ケント 制作:木下京子 運営:山田恵理子[Y.e.P]
 広報:石井裕太 協力:[有]マッシュ 企画・製作:ポツドール
 出演:
 米村亮太朗:オウジ
 名執健太郎[smartball]:ナンミン
 仁志園泰博:エラオ
 古澤裕介 :ゲーリー
 鷲尾英彰 :チンゲ
 
 安藤玉恵 :ウシ
 佐山和泉[東京デスロック]:スーパージャイコ
 小倉ちひろ:ヒメ

 ポツドールの新作「夢の城」は「愛の渦」*1での三浦大輔岸田戯曲賞受賞後、第1作目の作品だということになる。この作品自体がどうだという個別な評価ももちろんあるのだが、こういう機会をとらえてこういう作品を上演したということに三浦の作家としての志向性、集団としての強い意志を感じて、そこのところがすごく刺激的な公演だった。
 少し抽象的になったのでもう少し具体的にどういうことなのかを説明すると、まずこの舞台には台詞らしい台詞がまったくないのだ。三浦大輔はこれまで舞台の登場人物による会話を覗き見させるような形でいまそこにあるそこはかとない雰囲気を追体験されていくような「リアル」志向の舞台を構築してきた。「覗き見させるような」と書いたが、これは平田が90年代に登場していた時によくこのように称せられていた言葉で、ポツドールの場合はその覗き見する場所をそこを覗いたらいけないような場所に設定することで一層、「覗き見」の快楽をピュアに追求しようという確固たる意思が感じられる。
 「夢の城」ではある下宿の一室を舞台にそこで生活する若者たちの日常が淡々と描かれていくのだが、そこではそれまでやはり日常的に見える状況を描いてきた平田オリザであれば描かなかったような、性行為の場面も、食事の場面やテレビゲームをしている場面と等価の行為として描いていく。
 だが、この芝居が興味深いのはここでの登場人物はいっさい会話をかわさず、そこには通常の言語コミュニケーションがまったく存在していないことだ。言語コミュニケーションとあえて書いたのは理由がある。ここでは共同生活する若者たちの生態が描かれていくが、彼らの間にコミュニケーションが存在しないわけではない。「性行為の場面も、食事の場面やテレビゲームをしている場面と等価」と書いたが、この場所では性行為も食事もテレビもある種のコミュニケーションの役割を果たしていて、まったく自堕落そのものに見える彼らにも食事の場面などを見ると、それは普通の生活に慣れ親しんだ目から見ると一見無秩序に見えても、彼らのなかにもきちんと役割分担などの最低限の社会的な関係性がはっきりと存在しているのが見えてくる。
 奇異な感じを受けかねない「夢の城」の無言劇のスタイルだが、以前に「いろんなものに邪魔されて聞き取れない、あるいは聞き取りにくい会話というのが最近の三浦演出のひとつの特徴」と書いたこともあるように、「男の夢」でカラオケボックスの喧騒のなかでのほとんど聞きとれない会話、「ANIMAL」では全編にわたって大音量でヒップホップが流れて、その中で交わされる会話はまったく聞き取れない、という2つの芝居をへてきたことを考えれば、「台詞はあるけど観客に聞き取れない」から、「まったく台詞がない」舞台への移行はある意味で必然とも思われる。
 さらにいえばここには「ANIMAL」ではかろうじて感じ取れた事件も起こらないし、平田らの「関係性の演劇」にあるような読み取るべき隠された関係性さえない。観客は「いま・ここ」で起こっていることを見ていて不愉快なことも含めて、ただ見続けていることを強いられる。
 この観客にとっての快楽をまったく突き放したラジカルさが、三浦大輔の真骨頂であろう。ある種の「いたたまれなさ」はあってもこれまでの三浦の作品には、「覗き見」の快楽と書いたような娯楽性はあって、というのは性行為それ自体を三浦が舞台に上げるということはなくても、「秘められた行為を覗き見る」というのはポルノグラフィーの本質であり、そうした構造を作中に取り入れることで、観客の欲望をコントロールして、誘導するということがこれまでの作品では行われていた。
 ところが、「夢の城」ではセックスも描かれるけれども、それはあくまで即物的なもの、あるいは日常の連続としてであって、ここには少なくともポルノグラフィー的に欲望を喚起するような意図はあるとは思えなかったし、エロスという意味でいえばロマンチカの「PORN」などとはまったく対極的なアプローチの姿勢が感じられた。
 この作品を見て私がなにを連想したのかというとそれは「動物園のサル山」であり、「アリの観察キット」である。ここでは観客は次第に冷静な観察者として、舞台で展開されている若者の生態を俯瞰した位置から観察するというような立場に気がつくと自分が置かれている。「サル山」「アリ」の例はたまたま思いついたということもあるけれど、この両者が社会を構造として持つ生物であるということもあるし、コミュニケーションの道具としての言葉が排除された時に人間がどのようなものとして存在しうるのかという一種の思考実験でもある。
 この自分が描く対象に対する冷徹ともいえる突き放したような視線やこれまでも三浦の作品での特徴ではあったが、それを実験性においてさらに推し進めたのが「夢の城」だった。さらにいえばそういう空間を思考上のユートピア(アンチユートピア?)として描き、しかもそれに「夢の城」と表題をつけた。ここに「悪意の人」三浦大輔の面目躍如たるところを感じた。