五反田団「ふたりいる景色」@こまばアゴラ劇場

五反田団「ふたりいる景色」こまばアゴラ劇場)を観劇。

 作・演出 前田司郎
 照明:前田司郎 照明アドバイザー:岩城保
 宣伝美術:藤原未央子 制作:榎戸源胤ほか 主催:五反田団
 助成:芸術文化振興基金助成事業
 出演:
 金替康博[MONO] :男
 後藤飛鳥[五反田団] :女1
 立蔵葉子[青年団]  :女2
 望月志津子[五反田団]:女3

 五反田団の前田司郎の新作。五反田団ならびに前田司郎はチェルフィッチュ岡田利規ポツドール三浦大輔同様に私にとって刺激的で重要なのだが、実は前述の2人と比較した時にそのどこが決定的にそれまでの演劇と比べて新しく、刺激的に感じるのかについて、私のなかでも整理しかねているところがある。つまり、面白さの質が微妙で三浦や岡田のように一言ではいわく言いがたいのだ。だから、そのことについてしばらく考えてみなくてはいけないと思っている。
 前田司郎のつくる世界の全体についてはもう少し、時間をかけて考えることにして、とりあえずこの「ふたりいる景色」を見て考えたことを書いてみたい。
 自分の部屋のなかに引きこもったまま、外に出ずにゴマと自分の尿だけを摂取して即身仏になることを目指す男の物語である、と書いたらそれだけかよと身も蓋も無い筋立てに見えるのだが、そういう身も蓋も無い話をちゃんと芝居として面白く見せてしまう力技が前田ならではといえるだろうか。
 この芝居を見ていて「ニート」「セカイ系」「引きこもり」「エヴァ症候群」といった現代の病症とこの物語に登場する男(金替康博)は明らかに問題群を共有している。そこにこの舞台の現代性がある。万年床が敷きっぱなしのきたない部屋。撮影済みのフィルムが部屋のあちらこちらに散在している。男は彼女(後藤飛鳥)と一緒に暮らしているのだが、ある時期から世間との関係をいっさい絶って、部屋のなかからいっさい出ない生活を送っている。
 ゴマだけを食して、即身仏になるというのである。「即身仏って……それって死んじゃうってことでしょ」。相手のことが好きであっても男のことがまったく理解できない現実的な女ととぼけた男とのなんとも噛み合わない会話が続き、思わず笑ってしまう。そもそも、即身仏ということをなにか勘違いしているとしか思えないのだが、それでもこのなんとも馬鹿馬鹿しい修行(?)に取り組んでいる男が観客の目にそれなりのリアリティーをもって迫ってくるのはこの役柄に世界でもっとも情けない男が似合う俳優、金替康博*1を持ってきた前田の慧眼である。普通に考えるとこの男、相当に腹立たしい存在であるはずなのになぜか憎めないのである。
 芝居の後半では近くに越してくるという友人がこの部屋の様子を見に訪ねてくることをきっかけに彼女はこの部屋から出ていってしまう。それと平行して男の修行も進んで、今度は自分の尿だけを飲むという自給自足生活に入るのだが、このあたりから物語には「私はゴマの精です。ゴマを大事にしていただいて有難う」などと話す女がどこからともなく登場するなど男の妄想とも思われることも混じってきて、どんどん現実離れしていく。
 冒頭から登場している部屋に散乱している撮影済みのフィルムはそれがかつては男もそこにいた外の世界を撮ったものだということを考え合わせれば、それが現像・プリントされないままそこに放置されているということはこの物語の主体である男が「社会」との関係を絶ったという現在の状況を象徴的に表している、といえる。
 実は最初の方で「セカイ系」と書いたのはここで表現された世界が「セカイ系」と言われている物語群と構造を共有しているところがあるからだ。
 「セカイ系」については論者によって多少ニュアンスの違いもあるようで、例えばネット上のフリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』の定義では
「世界」(セカイ)には一人称の主人公である「ボク」と二人称となるヒロインあるいはパートナーの「キミ」を中心とした主人公周辺しか存在しないという設定の元、救世主である主人公周辺の登場人物の個人的行為や精神的資質・対人関係・内面的葛藤等がそのまま「世界」の命運を左右していくという形で物語が進行していく作品スタイルを指す。

主人公が救世主であるという設定上の前提条件に社会的裏付けが存在せず、個人的事象に由来する小状況がハルマゲドン(世界の破滅)や世界を救う行為等の大状況に対し、社会や世間・国家等といった中状況を一切介さずに直接アクセスするという展開が物語の基本を成す。つまり「想像界」(経験を経ない感情やイメージ・観念に属する領域)が「現実界」(結果として起こる目の前のリアリティ)と直結され、媒介すべき「象徴界」(社会的組織・秩序・身分や具体的行動等の領域)は省略されると言うことであり、「ボク」と「キミ」と「世界」の外部にある存在、すなわち三人称に相当するものは、全て排除すべき敵あるいはなかったこととして扱われる。

役者や舞台装置が最低限で済むメリットから、演劇や自主制作映画等では定番だが、それら低予算実写手法をヒーローアニメに取り入れた『新世紀エヴァンゲリオン』の爆発的ブーム以降、メジャーを含む諸種の創作物にも導入されることになったため、「エヴァ系」・「エヴァ症候群」等とも称される。のように解説されている。
 「ふたりいる景色」は「セカイ系」だと書かずに、「セカイ系」と言われている物語群と構造を共有しているところがある、となんとももどかしい表現をしたのは、ここには「主人公が救世主であるという設定上の前提条件に社会的裏付けが存在せず、個人的事象に由来する小状況がハルマゲドン(世界の破滅)や世界を救う行為等の大状況に対し、社会や世間・国家等といった中状況を一切介さずに直接アクセスするという展開」はないからだが、その代わりに前田がそこに置いたのはなんと「普通のまっとうな恋愛」なのである。
 そうだとするとこの芝居で最後に置かれた一見、回想シーンのようにも思える男が彼女と分かり合えるという場面は実は「臨死体験にある男の脳内の幻想」とも読みとることができる。つまり、ここにあるのは徹頭徹尾ひとりの男だけであり、そこには外部「他者」はいない。他者とはけっして分かり合えないという絶望を描いた物語をあえて「ふたりいる景色」と前田が表現したのはどういうことだったのか。そこに救いはあるのか。印象的な幕切れであった。 
  

*1:誤解がないように言っておくが金替康博が情けない男だといっているわけではないので、そこのところは間違えないように