ダンスについて考えてみる(再開への準備のために)

 今年のはじめ「ダンスについて考えてみる」という論考*1を書き始めていたのが、2ヵ月近くにわたって中断してしまっていた。この「身体論のすすめ」は京都大学人文研究所の学者らによる身体をめぐる論考(講義)をまとめたいわばアンソロジーのようなものだが、全体としてはいささか幕の内弁当的な食い足らなさはあっても、何ヵ所かこれまで「ダンスについて考えてみる」に書いてきたことに関連して考えると興味深い論点があったので、それを簡単に紹介するとともに近い将来に論考を再開する足掛かりにしたいと思う。
 まずは岡田暁生の「音楽は「聴く」ものか―音楽と身体」。疑問形になってる表題からも分かるとおりにこの論考自体は「音楽は「聴く」ものというだけでじゃなく、「見る」「感じる」「触れる」ものだ」というのが論旨で音楽のパフォーマティブな側面に光を当てたものではあるのだが、興味深いのはそのなかで「音楽を身体という曖昧な存在から切り離し、客観的な音の秩序へと昇華する。それが西洋音楽史を貫く強い意思だ」と分析しているところ。
 そうか。「ダンスについて考えてみる」で私が想定していた音楽のイメージは西洋音楽クラシック音楽)の特色だったのだ。そういえば、私にとっての音楽体験の原点はフォークやビートルズはあるとしても、クラシック音楽をステレオを通して純粋な音として追体験するというもので、実際のライブやコンサートに行くというのはずっと後からの体験だった。
 岡田はそれに続けてこう西洋音楽史の強い意思の帰結を語る。「まず1つはノイズの排除。身体とまだ未分化な状態にある音楽(身体にへばりついた音楽)には、かならずといっていいほど何らかのノイズ的偶然要素がつきまとう。たとえば尺八のまるで風が吹くような「シャー」という雑音やサンバの賑やかな金属質の騒音を思い出してもらえばいいだろう。これらの音楽を魅力的なものにしているノイズ性は、奏者のいわく言いがたい独特の身体感覚と密接に結びついていて、楽譜として分析的客観的に提示することはまずできない。たとえば尺八のノイズは首を左右に振ることで生ずるわけだが、これをエクリチュールとして「書く」ことは絶対に不可能だ。だが、西洋の芸術音楽は、こうした身体と結びついた非合理なノイズを、徹底的に排除する」。そして、さらに「身体性の排除のもうひとつの帰結は
、普遍性ないし再現可能性である」とし「そのシンボルがコンサートホールという空間である。徳島の阿波踊りでもいいし、ブラジルのサンバでもいいが、「出来事としての音楽」がもっている、その「場」の人々の生の濃密な痕跡(気配や騒音や臭い)はここではほぼ完全に排除されている」。 
 これはもちろんダンスではなく、音楽について書かれた文章ではあるのだけれど、ほぼ同様なことが少なくともダンスクラシック(=バレエ)とそれ以前ないし、以降のダンスの関係について言えるのではないだろうか。そもそも、文中では音楽としてとりあげられている
「徳島の阿波踊り、ブラジルのサンバ」はダンスそのものではないか。ここで興味深かったのは私がコンテンポラリーダンスについて問題群として重要なのではないかと漠然に考えていた「身体のノイズ性」と「即興(一回性)」の問題がいずれもその否定形という形「非ノイズ性」「普遍性」という形で西洋音楽史の強い意思ということで問題とされているわけだ。
 西洋音楽史と西洋舞踊史はおそらく、モダニズムという接点において密接な関係があるはずだ。もうひとつ最近気がついたのは西洋(特に欧州)のダンスにおいてはそれがコンテンポラリーダンスであっても使用される音楽としてはクラシック音楽である比率が圧倒的に多いということ。これが明らかな日本との違いで、このことにはバレエとコンテンポラリーダンスとの日欧における関係性の違いもあるのだろうが、音楽とダンスとの近親性を考える時に西洋のコンテンポラリーダンスは「非ノイズ性」「普遍性」というバレエがクラシック音楽と共有してきた性向をほとんどの場合、共有しているからという側面も考えられないわけではない。それゆえ、普通のコレオグラファーウェーベルンやベルクといったクラシック音楽の歴史の延長線上にある現代音楽を使うことはあっても、それ以外の音楽を意図的に用いるのはフォーサイスやケースマイケルのような音楽自体の構造と音楽との関係性を確信犯的に考えているコレオグラファーに限られているのではと考えさせられるところもある。

現代言語論―ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン (ワードマップ)

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