東京バレエ「ディアギレフ・プログラム」

東京バレエ「ディアギレフ・プログラム」フェスティバルホール)を見る。

◆主な配役◆

牧神の午後 振付・ヴァツラフ・ニジンスキー 音楽・クロード・ドビュッシー
牧神:首藤康之 ニンフ:井脇幸江
薔薇の精 振付・ミハイル・フォーキン 音楽・カール・マリア・フォン・ウェーバー
薔薇:木村和夫 少女:吉岡美佳
ペトルーシュカ 振付・ミハイル・フォーキン 音楽・イゴーリ・ストラヴィンスキー
ペトルーシュカ首藤康之 バレリーナ:小出領子 ムーア人:後藤晴雄 シャルラタン:高岸直樹

アレクサンドル・ソトニコフ
関西フィルハーモニー管弦楽団

 東京バレエの「ディアギレフ=ベジャール」のうちの「ディアギレフ・プロ」。本当はこの次の日に「ベジャール・プロ」を見る予定で、これが合わさって1つのプログラムという感じなので、こちらは前哨戦という趣きもあったのだが、結局、風邪で「ベジャール・プロ」の方は見られず。せっかく、ひさしぶりのバレエ観劇だったのに……。
 この日は「ディアギレフ・プログラム」の表題通りにディアギレフが率いたバレエ・リュス(ロシアバレエ団)のレパートリーのなかから、3本を選んだトリプル・ビルの公演。
 「牧神の午後」は先日、マリー・シュイナールによるコンテンポラリー版を見たばかりで、あれもずいぶん変な振付で思わず笑ってしまったが、冷静になって考えてみればこのニジンスキーによる原典版からして、なんとも変な振付である。コンセプトは一言で言えばエジプトの壁画の立体版。つまり、エジプトの壁画を見たことがある人は思いだしてほしいのだが、あれって顔と手足が横を向いているのに身体が正面を向いている。ニジンスキーはあれを舞台上でやれせているのだが、そのせいで舞台に登場してくるダンサー(ニンフたち)は普通に歩いたりすることができず、両足を少しづつずらしながら、蟹歩きみたいにしてでてくるのだけれど、その間も身体だけは横向きではなくてずっと舞台正面を向いていて、それが左右に3人づつグループで移動していく。これはなにかを思い出させると思って考えていたのだが、分かった。インベーダーゲームのインベーダーそっくりなのだ。
 ニジンスキーの評伝などを読んでみると、この作品で跳躍の高さで知られたニジンスキーがいっさいジャンプをせずにしかも、牧神に扮して自慰行為ととれるような演技を行ったのが良識派の観客の激しい反発を買ったが、このことによりニジンスキーはダンス芸術の可能性を広げることに成功したなんという風に描かれていることが多いのだが、実際のところどうだったんだろうか。この日の上演がどの程度、ニジンスキーの原振付を忠実に再現しているのかも不明なので、断言はしにくいところだが、この振付にしても、黒白まだらのビーグル犬のような衣装にしても、かなり馬鹿馬鹿しいのではないだろうか。私はなんだこりゃと思ってそのバカダンスとしてのアバンギャルドさに思わず笑ってしまったのだけれど、どうもこういうことを考える人というのは芸術家というのとは違うタイプの表現者だという気がする。この人晩年狂気に陥ったせいで、どうも必要以上に神格化されてしまっているというところがあるんじゃないか、という風に考えたのである。
 残りの2作品はバレエリュスを代表する振付家であるフォーキンの振付作品だが、こちらの方はフォーキンの作家性というよりは職人としての腕の確かさを感じさせられる作品である。というのはこういう風に続けて見てみると、「薔薇の精」も「ペトルーシュカ」もいずれもタイトルロールを踊ったスターダンサー、ニジンスキー*1へのあてがきじゃないかと思わせるところがあるからだ。
 「薔薇の精」も一応、表向きはフランスの詩人テオフィル・ゴーティエの「わたしは薔薇の精、昨晩の舞踏会にあなたが連れていってくれた」の詩句が原作で舞踏会から戻った少女と、薔薇の精のまどろみの夢幻の物語、ということになってるけれど、どう考えても「牧神の午後」と甲乙つけがたいほどにこのモチーフは露骨に性的寓意を色濃く含んでるよね。
 ということからすれば少女というにはあまりに艶かしい感じのした吉岡美佳はよかったといえるのだけれど、バランスからいえば木村和夫の薔薇の精はもう少し色気が必要だったかもしれない。「ペトルーシュカ」では小出領子のバレリーナがなんとも可愛らしくてよかった。初めて見たダンサーだが、他の作品でも見てみたい。

*1:初演は薔薇の精をニジンスキー、少女をカルサーヴィナが演じた。ペトルーシュカも初演はニジンスキーが演じた。