木ノ下歌舞伎「yotsuya-kaidan」

木ノ下歌舞伎*1「yotsuya-kaidan」(京都アトリエ劇研)を見る。
 関西の若手劇団の芝居を見るぞ企画第3弾。「木ノ下歌舞伎」は劇団ホームページによれば「現行の歌舞伎という枠に囚われず、様々な角度から見つめ直すことによって広義の歌舞伎観を発掘し、歌舞伎のオルタナティブ[代替案]を提示することを目的に、京都造形芸術大学 映像・舞台芸術学科に在籍する木ノ下裕一が中心となって06年より活動を開始するプロジェクト」という。
 今回はその最初の公演で演出・美術プランを杉原邦生が担当。鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」から「雑司が谷四ツ谷町浪宅の場」「同伊藤喜兵衛内の場」を上演した。
 杉原の演出は舞台後方に大きな幕が張ってあって、その場面、その場面で登場する人物が黒い台のような舞台装置に乗って、それが黒子に押されて、幕の奥から舞台前面に出てきては芝居をするというもので、この趣向はなかなか面白かった。「東海道四谷怪談」の「雑司ヶ谷四ツ谷町、 伊右衛門浪宅の場」「同伊藤喜兵衛内の場」というと本来の歌舞伎でいうと、2幕にあたる部分でここに台本*2が収録されているサイトを見つけたので、参考のために紹介しておくが、怪談としてのスペクタクルよりも、それぞれの登場人物の人間ドラマに焦点を置いた場面が今回は中心。もちろん、大南北の芝居だから、この場面でも有名な「髪梳き」などの趣向はあるが、怪談としての最大の見せ場である「蛇山庵室の場」のような外連はなく、それゆえどちらかというとそれぞれの俳優にも現代劇に近いような演技スタイルで演技させるというのが今回の演出プランだったようだ。
 ただ、この舞台では脚本自体は若干のテキストレジストを演出の杉原が行ってはいたようだが、基本的には鶴屋南北のせりふをそのまま使うということだった。これはやはりかなり無理があったのじゃないかと思う。
以前、蜷川幸雄の演出による「四谷怪談」を見た時でさえ同じように不満を感じたのだが、例えばこんなせりふなのである。
お岩「私が顏つき、好いか惡いか知らねども、氣持はやつぱり、同じこと。一日、あけしい閑も無う、どうせ死ぬるでござんせう。死ぬる命は惜しまねど、生れたあの子が一人不便に思うて、妾は迷ふでござんせう。モシ、こちの人、お前、妾が死んだなら、よもや當分。」
 歌舞伎のような「語り」の技量のない俳優がこういうせりふを成立させるためにはやはりなんらかの様式化が必要で、それにはやはり時間がかかる。今回のように大学生か、卒業してすぐというようなキャリアの浅い俳優だけでそれを成立させるのは難しいと思われた。そのため、やはり全体としては完成度という面ではまだまだ荒削りで「学生演劇としてはまあまあのできばえ」というレベルでしかないというのが正直な感想。どういうスタイルを志向するかも含め、新しい歌舞伎を本格的に志向するのであれば公演を続けながらまだまだ試行錯誤が必要だと思う。ただ、これはどうやら京都造形芸術大学の場合、歌舞伎や能・狂言という古典の実演が必修となっているせいか、若手の演劇人がこういう古典のテキストに興味を持ち、上演してみようと試みること自体が珍しいことでもあり、ここから今後どんなものが生まれてくるのかおおいに興味はそそられたのである。