「呪術対美術」@大阪造形センター

 トークショウ「呪術対美術」 http://www.yo.rim.or.jp/~hgcymnk/bvsf/00frame.html というイベントに行ってきた。 出遅れたので最初の榎忠のトークと大砲パフォーマンスはすでに満員で入れず残念だったが、人形作家の清水真理*1と 美術作家のやなぎみわトークを聞いた。内容的にもそれぞれなかなか面白いものでサブカルとアートの関係などは日ごろパフォーミングアートの世界でも考えていることが多いので、それぞれに興味深いものだった。
 特にやなぎみわはこれまで作品を見たことは何度もあったのだけれど、その作品のそれぞれの創作意図を聞くことができ、本人のトークも初めてだったので、私にとっては刺激的な経験であった。特に以前原美術館で見た「無垢な老女と無慈悲な少女の信じられない物語」の展覧会で展示されていた作品はそれまで見たやなぎみわの作品とはかなり印象が違って、感想*2でも「釈然としないところがある」と書いたのだが、今日の説明でその感覚が氷解したというということはなくても、それがそれまでの作品とは全くアプローチの違う作品であり、それゆえ私が感じたようなえたいのしれない分からなさを作品の構想過程に最初から含んだ作品なのだということが、納得できたということは私にとって重要なことだった。
 表題である「呪術対美術」というのは私には気になるタイトルながらも「呪術」と「美術」が韻を踏んでいるのが面白いものの、なぜここで突然、「呪術」なのというのがピンとこなかった。ただ、企画の案内サイトの企画意図によれば
 多分に批評的で知的な「現代美術」から、俗に「フェティッシュ・アート(呪物的美術)」と呼ばれるアートまで、現代のアートは実にさまざまです。
 本企画はサブカルチャー、ハイアートの双方で仕事をしてきた、美術ライターの樋口ヒロユキがモデレータを務めるトークイベント。サブ、ハイ双方のアーティストをお招きし、それぞれの立場からアートを巡る状況や表現のあり方をお伺いするものです。
 国際展や海外の展覧会で活躍する方から、国内のギャラリーを活動の場にする方、クラブイベントを発表の場にする方まで、そのバックグラウンドはさまざま。それぞれの違いに注目し、アートの持つ幅広い世界を楽しんでいただければ、これに勝る幸いはありません。

 俗に「フェティッシュ・アート(呪物的美術)」と呼ばれるアートの領域というのがあって、これはそこからとっているということらしい。それだけだと分からないので、参考のためにGoogleでネット検索して調べてみると、近しい用例としてSM・ボンデージ・ラバーなどが引っかかってきて、「呪術」というので分からなかったのだけれど「正確な使用範囲は分からないけれど、要するにフェチ系ということね」ということが分かった。そしてそれで人形作家の清水真理が、もちろん人形愛というだけですでに十分フェチなのだが、TATOOの入った人形の製作や写真家ウィトキンのことをけっこう長く話していたわけはこれかと初めて分かった*3
 片や球体人形作家、片や現代美術作家と位置づけられる清水真理とやなぎみわの2人だが、トークを続けて聞いてみて、この2人の女性作家のこれまでの経歴が微妙な形で交差していることが、日本の現代美術(ないし、美術)を考える意味で興味深かった。というのはこの2人に共通するのは清水真理は多摩美やなぎみわ京都市立芸大とそれぞれ日本の美術界の中心に近いところに位置する大学で美術を学んでいるわけなのだが、ともに大学で学んだことをそのままやっているわけではなくて、清水は映像系の学科で人形アニメーションに興味を持ち、アニメーションを作っているうちに人形を作る行為自体に興味を持ち、人形作家への道を歩みはじめた。これに対し、やなぎみわは大学での専攻は造形で以前は造形系の作品を作っていたのに、そこで限界を感じて、「エレベーターガール」以降、写真と映像を使った作品で世に出ていったこと。
 さらに興味深かったのは清水が自分の作品作りをイメージが最初から明確にあるのではなくて、ものをこねまわしているうちに生まれてくると語ったのに対し、やなぎみわは造形作品を作っている時にはものをコツコツと作っていくことで、世界をもので埋めていくような感覚に快感を感じていたが、しだいにそこに安住できなくなった、と語ったこと。それで私なりにパラフレーズすれば社会や他者とコミュニケートするような方法論を作品のなかに取り込んだ「My Grandmothers」のような作品を作ってきたのだけれど、新作の「寓話」シリーズでは突然自分のなかに降りてくるイメージに忠実に作品を作ろうとしている、ということ。
 ここでは「ものをこねる」「イメージが降りてくる」と全然違うアポローチについて語っているようでいて、そこには「無意識の意識的介在」というのがあるのではないかと思ったのである。そして、いわゆるジャンルとしてのフェティッシュアートということからははずれるのだけれど、「無意識の意識的介在」というのは美術における方法論的「呪術」の重視という風にも考えることができるのではないか。
 アンドレ・ブルトンの創始した運動としてのシュールレアリスムを持ち出すまでもなく、美術ないし芸術はその創造の源泉に「無意識」を介在させることで、新しい泉を掘り起こそうとしてきた。そして、そこから浮かび出てきた代物はなんとも名状しがたい「気持ちの悪いもの」で、それが気持ち悪いのはそれが言語によって解釈できない意味以前のものであるということがある。もちろん、人類の言語を操る能力というのは侮れないもので、例えば同時代にフロイトはその名状しがたい無意識を分析する新しい言語体系として、精神分析学を構築する。
 そして、それが俗流化された現在でもある種の「無意識の生み出したイメージ」にレッテルを張るにはある意味で有効でもあるがゆえに、清水真理の人形ややなぎみわの「砂女」のような「呪術」的なモノ性を抱えた対象物にであった時に精神分析やある意味その遠い子孫である構造分析などの手法を使って、「悪魔ばらい」をしたくなる欲求にかられるのであるが、どうもこの「呪術」は十分に強くて、生半可な分析でははらえないような気がした。
 と思ってから清水真理のサイトにあるプロフィールを読んだら、影響を受けた思想家にジークムント・フロイトルドルフ・シュタイナーカール・グスタフユングの3人を挙げており、こういう人を相手にするのは私ではまだ力不足、下手な分析は相手の思うままと考え、ここでは一時撤退することに決めたのである(笑い)。
 トークを見られなかった榎忠も終演後、階下のロビーで直接話を聞くことができ、キリンプラザで見た新作をどんな風に作ったのかなどの説明を本人の口から聞けて大収穫。
 ギャラリーや美術館で行われるレクチャーや座談会のようなものはあっても多くの場合、アート関係者を中心にした限られた聴衆を対象としたものとなり、こういう形での現代美術の作家がハイアート以外の作家と一緒にイベントトークをするという機会は東京では時折あっても関西ではまだ少ないので、岡目八目的な目で見るとまだまだ閉じている印象のある関西の現代美術の世界に風穴をあけるような企画として、これは面白かったと思うし、こういうことをもっとやってほしいと思った。
 さらに榎忠とのトークが見られなかったので、それがどんな風だったのかが、気になるところだが、こういうトークショーの場合、対談の相手がいかにして、相手に対して質問してどんな答えを引き出すかが、企画が面白くなるかどうかの成否を決めるところがある。そのためにはもちろん、周到な下準備や技術も必要で、関西の舞台芸術でのアフタートークが往々にしてつまらないことが多いのは不勉強か内輪話かのどちらかになってしまうことが多いからなのだが、そのあたりのさじ加減を今回は企画者の樋口ヒロユキがうまくやっていて、そういう意味ではどんな企画でも浅田彰かよ(確かに抜群にうまいわけです、その辺のさじ加減が)というのを脱するための第一歩としても注目のイベントだったのではないか。きたまりのファンみたいだし、ダンスのイベントもやらないかい? ただ、「呪術」というテーマでやるにはきたまりの場合、案外素質はあるかもしれないが、まだ見習い魔法使いぐらいかな。KIKIKIKIKIKIは絶対に「魔女の宅急便」のKIKIとだけは関係ないって本人は強く主張しているけれど(笑い)。

*1:http://kruz.at.infoseek.co.jp/

*2:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050814

*3:うかつなことにそれまでフェティッシュアートという枠組みのことをまったく理解せずにこのトークを聞いていた。ちなみに私は人前であまりその言い方を使ったことはないけれど、そうしたジャンルを「危ない系」、「危ないアート」と自分では呼んでいた(笑い)