三浦雅士「身体の零度―何が近代を成立させたか」

三浦雅士「身体の零度―何が近代を成立させたか」講談社)を読了。
 読了と書いたが、実は相当昔に読んでいたので再読である。ただ、最初に読んだ時にはまだあまりコンテンポラリーダンスなどを頻繁に見るようになった以前のことだった。今回改めてもう一度読んでみて、この本が提供している「身体の零度」という概念はダンス、特に現在の日本のコンテンポラリーダンスを分析していくための前提として、非常に有効ではないかと思った。実は読んでみて初めて気がついたのだが、本書で舞踊については最終章にあたる第九章が「舞踊」と題され、身体の零度ないし、零度の身体と近代以降の舞踊の歴史の分析にさかれているのだが、私の印象ではもう少し多い分量が舞踊についてさかれていたのではないかと勘違いしていた。それは私が最初に読んだ時の印象から離れて、いつのまにかこの本によって得た知見の一部をダンスの歴史やコンテンポラリーダンスを考える時に利用してきたこともあるのかもしれない。
 この最終章で三浦はバレエやモダンダンスを身体の零度に依拠するとし、その極北の地にイリ・キリアン(そして、もうひとつ明確ではないがおそらくフォーサイスも)位置づけ、その対極にピナ・バウシュを配置する。ここまでは非常に分かりやすい。「零度の身体」とは合目的性に奉仕する機能的身体=近代的身体と考えられるが、ここからこぼれ落ちるものを考える時におそらく2つの方向性が考えられると思うからだ。
 ひとつはプレモダンでもうひとつはポストモダンと考えてもいいのだが、ここで考えなければいけないのはこの両者の関係なのである。言葉の問題だけからいえばモダンダンスの流れの一部にポストモダンダンスやポストポストモダンダンスなどと呼ばれる種類のダンスも存在するので、話はちょっとややこやしく感じられるのだが、もちろん、そうした系列のダンスは大別すればモダンダンスの範疇において考えるべきものだといえる。ここで問題になってくるのはそれじゃ舞踏はどうなのかということだが、これは少し難しい部分を含んでいる。舞踏は西洋人の目にはバレエやモダンダンスとは違い東洋のモダン以前(プレモダン)の舞踊を連想させるところがあるわけだが、これは元々、土方巽というひとりの天才的ダンサー・振付家が生み出したもので、そういう意味では能、歌舞伎、日本舞踊などの日本のプレモダンの舞踊からははっきりと切断されているもので、近代的な方法論を前提として人為的に構築された「プレモダン」風味のダンスという風にもいえなくもない。こういう言い方はもちろんいささか乱暴でもあり、事態を単純化しすぎているところもあるが、それが特に西ヨーロッパにおいてオリエンタリズムを経由した形であっても、ある種、普遍的なものとして、特にバレエ的なダンスの対極概念として広く受け入れられることになるのは実はこのモダン/プレモダンの2重構造があったからではないかと思う。
 このことはもう少し継続的に考えてみなくちゃいけないとは思うのだが、実は特に日本のコンテンポラリーダンスについて考える時にもうひとつ考えてみなくてはいけない重要なポイントがあるのではないかと思っている。それをポストモダンと呼ぶべきなのかどうかは若干の躊躇がなくもないのだが、「合目的性に奉仕する機能的身体=近代的身体」とは違う身体のあり方。これを例えば桜井圭一氏は「コドモ身体」と呼ぶのだが、そのネーミングの是非は置いておくとしても、いわば「機能不全の身体」に依拠したダンスが日本においてはコンテンポラリーダンスにおいてひとつの焦点となっている、のである。
 「コドモ身体」のネーミングについての是非と書いたのは三浦雅士が「身体の零度」の極北にある身体像について「超人形」となぞらえたことからすると、「超人形」があらゆる身体の動き、所作が制御可能である理想モデルであるとすると「機能不全の身体」はそれが壊れてしまった状態、制御不能の身体ということが想定され、そうだとするとここには桜井の考える「コドモ身体」には入れにくいような東野祥子の壊れたロボットのような動きをその典型として、含まれるように考えられるからだ。私自身の言葉(ターム)ではこの壊れた身体のあり方を「ノイズ的身体」と呼びたいところなのだが、ここには東野以外にもニブロールのアンコントローラブルを志向する動きやクルスタシアの濱谷由美子が最近追求している理想(アイディール)な振付と実際の動きのズレが生まれることで引き起こさせる一種のフリクション(摩擦)や黒田育世のダンスが時折見せるもがきなどもここには含まれるかもしれない。 
 そして、なぜこれが表現として刺激的なのかというと「零度の身体」というものが近代における理想を体現しているものだとすると、この「ノイズ的身体」は「機能化」が引き起こす身体・精神におけるストレスによって現代人が抱え込んでしまったさまざまな機能不全を反映するものとなっていると思うからだ。
 そして、さらに言えば興味深いのは単に機能不全だというだけの単純なものではなく、そこにはそれをなんとか制御(コントロール)しようとするある種の技術と制御に対する根源的な不可能性とのせめぎあいがそこには存在するためで、それは単に踊れない(技術のない)人が踊れないということや既存のテクニックを排除してしまっていっさい踊らないということとはまったくレベルの違う作業ではないかと思うのだ。