「lovers ふたりだけのロミオとジュリエット アストラカン編」

「lovers ふたりだけのロミオとジュリエット アストラカン編」HEP HALL)を観劇。

●『よろい編』
演出/ウォーリー木下(劇団☆世界一団
出演/ロミオ:北村守(スクエア)、ジュリエット:榎園実穂
■衣裳/ヨダミカ(Gato Gato)
●『アストラカン編』
演出/たみお(ユリイカ百貨店
出演/ロミオ:赤星マサノリ(劇団☆世界一団)、ジュリエット:羽賀友妃子(GO!GO!マグネグflowerモモンガ)
■声の出演/D.Danny ■造形/浜村修司

■作/W.シェイクスピア
■翻訳・脚本/中井由梨子
■監修/大塚雅史
■アートディレクション/黒田武志(sandscape)
■テーマ音楽/ハンバート ハンバート「アメリカの恋人」
■照明/大塚雅史
■照明操作/加藤直子
■音響/奥村威(T&Crew)
■演出部/佐々木智史、山田翠
■舞台監督/久保克司(スタッフステーション)
■宣伝写真/藤本直也
■スタイリスト/有吉麻美(オフィス アンテナ)
■プロデューサー/丸山啓吾、星川大輔
■制作/大西聖子、麻田結希
■制作協力/宮崎由美(スタッフステーション)
■協力/アーティスティックポイント、石原正一ショー、itohen、Ohrai Records、オフィス アンテナ、Gato Gato、劇団☆世界一団劇団そとばこまち劇団とっても便利、GO!GO!マグネグflowerモモンガ、ザッハトルテ、sandscape、SKKY、スクエア、スタッフステーション、ダイナマイトしゃかりきサ〜カス、T&Crew、TAKE IT EASY!、Dessert Musique、内藤昌樹、pinkish!、fill in-osaka、MIDI RECORDS、ミュゼット・ジャズ・バンド、山元ゆり子、ユリイカ百貨店、LOVERS Project、リコモーション(50音順)

■主催/HEP FIVE
■企画製作/HEP HALL
■後援/FM802

 恒例となるつつあるHEP HALLのプロデュースによるシェイクスピアは「ハムレット*1「夏の夜の夢」に続き第3弾。今回は「ロミオとジュリエット」なわけだが、今回だけの特別な企画として、これまで翻訳を担当してきた中井由梨子の翻訳・脚本により4組のキャスト・演出家の2人芝居競演となった。
 漫画「ガラスの仮面」に主人公北島マヤのライバル姫川亜弓が演じるひとり芝居「ジュリエット」というのが出てくるのだけれど、二人芝居のロミジュリというのはこれまでありそうでなかったのじゃないか。ここで最大のハードルとなるのは脚本なのだが、今回4本の芝居をすべて見て思ったことでもあるのだが、原作の台詞を再構成したものではあるのだが、中井由梨子の脚本がよかった、と思う。
 それは原作に登場する人物のほとんどを削って、二人芝居にしなくちゃいけない、さらに上演時間も1時間程度におさめなくちゃいけないという高いハードルが設けられて、それを見事にクリアしているということにまずあるのだが、それだけではなくて「恋物語」「悲劇でありそして喜劇」というこの物語の本質を原作以上に純度の高い形で掘り下げているところがあって、それが中井自身による「ロミオとジュリエット」という物語についての解釈にもなっているからだ。
 今回の上演脚本ではオープニング(墓場)→ACT1(バルコニーシーン)→ACT2(乳母がロミオからの返事を受けるのをジュリエットが待つ)→ACT3(ティボルトの死とロミオの追放をジュリエットが乳母から聞くから、寝室のシーンまで)→ACT5(墓場)→エピローグという大きな流れになっているのだが、これで重要なことに気がつかないだろうか。実はこの「ロミオとジュリエット」においてもっとも本質的なことは2人の死でも、キャピレット、モンタギューの対立にかかわりロミオがティボルトを殺してしまうことでもなく、2人が運命的に出会ってしまったこと、つまり仮面舞踏会での2人の「見初め」の場面にあるというのが私の持論なのだが、今回の脚本ではこの仮面舞踏会が一連の物語の流れのなかには出てこない。それは最後の最後「エピローグ」と書かれたラストシーンになっていて、そこからすべての出来事が俯瞰されるような構造に今回の中井脚本はなっているのだ。
 しかもこれまで「ロミオとジュリエット」は演劇やダンスの上演、あるいは映画でも何度となく見てきているはずだったのにこの「見初め」の場面では離れたところから2人が初めて視線を交わして見つめあう。このビジュアルとしての印象が強くて、うかつにもシェイクスピアがここでどんな台詞を2人に与えていたのかには気がついてなかった。
 中井の脚本によればそれはこうである。ロミオ「ごめんなさい、こんな汚い手であなたの手に触るなんて。しかし、もし手が汚れたとおっしゃるなら、この唇が、お手を清めるためにそっと控えています。どうか、もしそうなら僕をお叱りになってください、…天使様」ジュリエット「汚いだなんて。もう一度お手を。ずいぶんと礼儀正しいお人ですこと。でも唇はだめ。私を天使と呼ぶのなら、私はあなたへのこの口づけをお返しするわ。知ってる? これが天使たちの口づけなんですって。」ロミオ「これが? どうして? 天使にだって唇はあるでしょう。」ジュリエット「天使の口は祈りのためにあるのよ。」ロミオ「天使様、じゃあ唇に手の代わりをさせてみては? 無力な人間のささやかな願いです。」ジュリエット「天使は人間にはなびかないもの。口説こうとしても無駄ですよ。」ロミオ「天使と人間では結ばれない? それならひとつ、方法がある。」−−−ロミオ、ジュリエットの手にキスする。
ロミオ「私の唇から罪が移り、天使のあなたは人間になった。」ジュリエット「私に魔法をかけたのね?」ロミオ「魔法! そうだよ、そのとおり! じゃあ僕が移した罪を返してください。そうすれば魔法が解けるかも。」ジュリエット「試してみて。」−−−ロミオ、ジュリエットにキスする。
 ここまで来れば明らかであろう。一見、恋する若い二人の戯れにも思われる2人のたわいない会話が暗示しているのは「ロミオとジュリエット」が本来地上のものである人間には手の届かない天使を誘惑するという物語である、ということ。その意味でこの物語は悲劇であることを最初から運命づけらえたファンタジーとして、バレエの「白鳥の湖」や「シルフィード」に近いものであって、同じ悲劇といっても「ハムレット」「マクベス」「リア王」「オセロ」の4大悲劇に代表されるような「人間の欲望とそれにかかわる悲劇」とはまったく性質を異にする物語だということが分かるのである。この解釈(と私が考えるもの)は私にとって目から鱗というところがあって、そうだとすれば人間の知恵を持って神につかえる存在であるロレンス神父がまるで信じている神に裏切られていくかのように立て続けにへまをせざるをえないのかが、了解されてくる。
 さて、それでは実際の上演はどうだったのか。まずは、たみお(ユリイカ百貨店)の演出による「アストラカン編」。今回の上演のなかでどうなるのかを一番危ぐしていたのがこのバージョンだったのだが、これがよかった。
ユリイカ百貨店の作品については以前にやりたいことは分かるけれど、これは私のようなすれっからしのおじさんにはついていけない、というような趣旨の感想*2を書いたことがある。要するにあまりにメルヘンチックで見ていて恥ずかしくなってくるのだ。ところが今回もそうした作風は変わっていないのだけれど、甘酸っぱいようなストレートな恋物語は楽しむことができた。「ロミオとジュリエット」というテキスト(そして、特に中井由梨子の脚本)との親和性が一番合っていた上演ではないかと思ったのである。 
 赤星マサノリの2枚目ぶりにしても、羽賀友妃子の少しぶりっ子の演技にしても正直言って現代劇のなかで見るとわざとらしいというか鼻につくようなところがないでもないのだが、たみおの演出はそれを逆手にとって、そういう現実離れしたようなところをうまく利用したような演出。それがどこまで意識的になされたのかということについては若干の疑問もないではないのだけれど、ここで描かれるのは夢の世界での王子と王女の出会いで、端的にいえばバレエの世界に近いのである。シェイクスピアの場合は現代の演出家がそれを上演しようとする時には往々にして、どこかで現実とテキストの間にアンカーを下ろしたい、現実にあるかもしれないリアルな物語として上演したいという思いがでてきて、この「ロミオとジュリエット」の場合はそれが大きな勘違いになってしまうことが結構あるのだが、たみおの演出はまったく方向性が反対。
 原作の戯曲にはあったはずの現実的なディティールをほとんど排除して、月や窓やバルコニーといったロミジュリにつきものの舞台立てを象徴的に様式化したメルヘンチックな舞台装置のもとにあくまで夢の世界の出来事として現前させていく。そして、その道具立てのなかではいかにも貴公子然とした赤星マサノリの個性や夢見る少女の羽賀友妃子はまるであつらえてきたようによく似合っていた。
 一方、ウォーリー木下による「よろい編」はおそらく今回上演された4本のなかでもっとも伝統的な「ロミオとジュリエット」のイメージから掛け離れた演出でその距離感が面白かった。特にこの日は「アストラカン編」との同時上演でこの両者の対比があり、余計に面白かったこともある。演出とは書いたが、こちらの方はスクエアの北村守というおよそロミオというイメージからこれほど掛け離れた男はいないだろう、このキャスティングの勝利という気がする。
 ここで北村が演じるのは現代人の目から見てもまさしく等身大のどこにでもいるような男。そして、ここで描かせるのはそのさえない男が思わず自分には手に余る少女との恋愛を成就してしまい、舞い上がったまま、自分の世界ではない異世界での悲劇に巻き込まれていってしまうという物語。だから、それは悲劇なんだけれど悲劇であるがゆえに観客の目にはとんでもなくおかしい出来事、だけれど哀しい出来事でもあるということなのだ。そもそも、あの北村守が金属製のよろいを着て出てきて、ぎごちない動きであっちにぶつかり、こちらでは道具を倒しというプロローグを見てもこれはもう相当に可笑しいのだが、それがロミジュリでもっとも悲劇的な墓場でのシーンだということで
ますます笑ってしまうのだが、その後もいろんな場面でみせる挙動不審ぶりはこれがすべて計算された演技なのだとすればほとんど至芸の世界だが、おそらく(というより絶対)そうじゃないところが余計におかしい。
 ただ、それだけだと単に面白おかしいコメディだというだけになりそうなのをちゃんとこれがロミジュリになっているのはそれが哀しくもあるからで、ここで北村が演じているのはチャップリンの演じるような人物なのである。「アストラカン編」のことをバレエのようなメルヘンと書いたが、そういう例えでいうなら「よろい編」のテイストはちょっとチャップリンの「街の灯」や「ライムライト」なんかを想起させるところがあり、これもまたロミジュリの新たな解釈として「あり」じゃないかと思ったのである。