維新派「ナツノトビラ」(1回目)

維新派「ナツノトビラ」梅田芸術劇場)を観劇*1
 「キートン」以来2年ぶりの国内公演となる維新派「ナツノトビラ」は昨年中南米ツアーで初演した作品の練り直しての再演である。
 今回は梅田芸術劇場が公演会場となったわけだが、作風としては新国立劇場の「nocturne」、大阪南港野外の「キートン」、そして今回の「ナツノトビラ」と見てみるとそれまでの祝祭的な空間から場面、場面での構図の精密な構成を意識した完成度の高いアートパフォーマンスへの方向性は大きな流れとしてあるのが間違いないところで、以前の維新派と比べると緻密に計算・構築された群舞のシーンなどにそれは色濃く反映されていて、この流れはもう簡単には変わらないなという印象をより強く持った。
 以前だと数人で構成された少年たちの物語ということが多かったのだが、今回はキートンにひき続き少年、ワタルも登場するものの小山加油演じる「なーちゃん」と呼ばれる少女がある夏の日に体験する白昼夢を描き出した一種の幻想劇で、ダンスシアターとして「白鳥の湖」「ラ・シルフィード」のような日常の裂け目で異界のものと出会うというある種の古典的なバレエと近い劇構造を持っている。
 異界のものと書いたがもう少し具体的に書けば「ナツノトビラ」は少女が亡くなった弟のワタルと幻想のなかで出会うという「死者との邂逅」を描いた物語であり、これは能楽に近い構造を持っているということもいえるかもしれない。
 この「死者との邂逅」というのはこのところ松本雄吉が繰り返し描いてきたモチーフでもあり、バスター・キートンという実在の人物をモチーフにした「キートン」を除けば「さかしま」「カンカラ」「nocturne」と同様の主題が繰りかえされているともいえるが、以前はそれを媒介したり、一緒に同伴するような第2、第3の人物がいたのが、ほかの要素をほとんどいっさい物語上では切り離してAがBと出会うという物語としてはもっともシンプルな形に純化していっているのが興味深いところで、ここでは舞台美術、照明、パフォーマーの群像としての演技により、それぞれのシーンのイメージをイメージそれだけに純化して表現することに関心が向いていて、「ROMANCE」「南風」「水街」のころにはまだあったと思われる物語を語るというストーリーテリングに対する欲望は松本の創作の上でのモチベーションとしては重要性が低いものへと変わっているのではないかと思われた。
 もっとも、古典バレエや能楽に近い構造と書いたがこれはあくまで構造のことであり、美術や音響などを中心にこの舞台に託したイメージに関していえばこの「ナツノトビラ」はこれまでの作品にはなかったほど直裁的に「暴力」「戦争」「テロリズム」など「9・11」以降の世界の空気の変化を反映したイメージが繰り返し繰り返しサブリミナルに提示され、ある意味作品のトーンを重苦しいものに見せるほどにこの作品を覆いつくしている。
 戦争やそれにともなう暴力といったイメージはこれまでの維新派と無縁であったわけではないが、これまでは多くの場合、「歴史」という過去を媒介しての主題であることが多かった。それがこの「ナツノトビラ」では舞台上での説明はいっさいないが、この芝居の進行する間中に中央の奥に貿易センタービルを連想させるツインタワーのような輪郭のビルが配置され、場面、場面でそこに白い照明が当たったり、飛行機の飛ぶような効果音が流れたりする。「暴力」ということに関していえばこの芝居にはナイフを持った通り魔が登場して、これも劇中ではいっさいその死因は明らかにはされないのだけれど、少女がそのイメージに激しい恐怖を感じて、頭を抱えてうずきまったりするシーンが繰り返させることで、弟が死んだのは実はなんらかのそうした事件(あるいは事故)に巻き込まれたことが原因だったということが暗示される。
 現実ということでいえばちょうどこの公演の直前にイスラエルレバノン空爆北朝鮮のミサイル発射などのきな臭いニュースが新聞・テレビをにぎわせたばかりでもあり、さらに言えば国内でも新潟の事件に続き、愛知でも母親が少女を突き落としたらしい事件が起こるなど、どうしてもそういうせちがらい現実を想起させてしまうところがこの舞台にはある。そういうことからも祝祭的な明るい気持ちは持ちにくいところなのだが、そういう重苦しいなかでただひとつ救いと見たいのは松本がこの芝居に託したのが「鎮魂の祈り」のようなものではないかと思わせるところだ。
 祝祭劇かアート志向かというような趣味の問題だけではなくて、現代演劇は現実を反映するし、反映せざるえないのだということなのだと思う。
 最後にパフォーマーについても触れておきたい。前回のキートンでの升田学同様に今回は少女役でこの舞台の中心をささえた小山加油の演技が光った。それから海外公演ではワタルを演じた春口智美(退団)の役ということで相当大変だったと思うのだが、赤松みさき、春口智美と過去に少年役で維新派をささえてきた役者たちとはまた違ったやや線は細いが繊細そうなイメージで、初舞台でワタル役を演じたまろも非常に印象的なデビューであり、今後が楽しみな存在であった。
 ただ、今回に関していえばだれにもこれまで維新派の看板であった春口の穴を埋めることはできないのも確か。そういうなかで、束になってそれを感じさせなくしたワタルの影(長いつばの帽子の少年)を演じた江口佳子、尾立亜実、境野香穂里(配役はパンフによるので間違っていたら失礼)の見事なアンサンブルには特筆すべきものがあった。
 さらにいえば主役はもちろん重要なのだが、現在の維新派においてはそれ以上に公演が進むごとに超絶技巧化しているアンサンブル(群舞)の出来栄えが作品の死命を決するほど重要な役割を果たしているということだ。松本雄吉自身は維新派の舞台をダンスと名指されることがどうも嫌なようなのだが、それを知ったうえであえて言えばこの舞台での集団場面での維新派パフォーマーの演技は通常のダンスのようなテクニックはほとんど使ってはいないけれども、ダンスと呼ばれてなんの違和感もない精度の高いものとなっている、と思う。日本のコンテンポラリーダンスにおいてはどちらかというと音楽に同期(シンクロ)しないで、息で合わせるなど音楽のカウントではない形での協調性で踊るというのが群舞の主流となっていることもあり、音楽と同期してステップ(足踏み)をするような維新派の群舞は特殊なものにも見えるが、
その音楽が内橋和久の場合は7拍子や5拍子という変拍子を多用したものであることもあり、それに合わせてステップを踏むというのはおそらくカウントで踊るのに慣れたバレエやジャズダンスのダンサーにとっても容易なことではないはずである。
 しかも、これは舞台の広い野外劇などで育ってきたことから、今仮にステップという書き方をしたけれど、その動きが走ることや歩くことを基礎として、それを複雑に変化させているところに維新派のダンスの特異性はあるのではないかと思う。
 この辺のことに関してはもう少し具体的な技術的な側面のことを解説してくれる人がだれかいないかと思うのだが、演劇的な動きがダンスに移行していったものとしてダンスパントマイムがあるのだが、ダンスパントマイムの場合、歩いているようにあるいは走っているように見せかけていても、多くの場合、足は床面をすべらせているのだが、維新派の場合はその場で停止した状態で走っているように演技している場合でも足は実際に走るようにあがっている。そこが大きく違うのである。この舞台はもう一度見る予定なのでその後でこのことについてはもう少し考えてみたいと思うが、ここまでは精密な思考の結果というわけでもなくて、まだまだ荒い思索段階なのでだれか詳しい人(バレエの専門家とか、ダンサーとか)がいれば意見を聞かせてほしい。
  

「はなこぁら」さんの維新派観劇感想 
http://blog.livedoor.jp/hanatown210/archives/50675009.html
 

*1:2回目の感想はこちらhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060717