桃唄309「おやすみ、おじさん」@TOKYOSCAPE

桃唄309「おやすみ、おじさん」(京都アトリエ劇研)を観劇。
90年代の日本現代演劇の大きな流れを形成してきたのが、群像会話劇の形でその背後に隠れた人間関係や構造を提示する「関係性の演劇」である。桃唄309の長谷基弘もその一翼を担う重要な劇作家のひとりではあるとみなすことができるが、長谷には平田オリザ岩松了松田正隆長谷川孝治ら「関係性の演劇」を代表する劇作家らと比較してみたときにそのスタイルにおいて大きな違いがある。
 それはこれらの劇作家の多くが1場劇ないしそれに近いスタイルをとっているのに対して、長谷が同じ群像劇でありながら短い場面を暗転なしに無造作につなぎ、次々と場面転換をするという独自のスタイルを開拓したことにある。
 こうした方法論で長谷はこれまで戦争が起こることでそれに政治的に巻き込まれていく若い芸術家たちの話「私のエンジン」とか、飛行機からスカイダイビングをしながら2組のチームが争うという(架空の)スポーツ、ダイビングサンダーとそれに取り組む実業団チームの群像劇「ダイビングサンダー」、作家の心象風景を90以上の場面を切り替えつつ描いた「よく言えば嘘ツキ」、ブラジャーが開発されそれが一般の人にも普及していく100年の歴史を描き出した「ブラジャー」とこの方法でしか描けないようなひとつの共同体の全体像や非常に長い歴史といった既存のスタイルの演劇がとらえるのが難しい対象を描いてきた。
 こういう時空を自由に飛ばすという劇構造は従来、映画が得意としてきたものだが、演劇は苦手としてきた。それはなぜか。映画にはあるカット割りが、演劇にはないからである。ところが、短い場面を暗転なしに無造作につなぎ、次々と場面転換をするという長谷独特の作劇・演出の手法は映画でいうところのカットに準ずるような構造を演劇に持ち込むことを可能にした。
 演劇で場面転換する際には従来は暗転という手法が使われたが、これを多用すると暗転により、それぞれの場面が分断され、カットやコラージュ、ディソルブといった映画特有の編集手法による場面のつなぎのようなスピード感リズム感は舞台から失われてしまう。これが通常劇作家があまりに頻繁な場面転換をやらない理由なのだが、これに似た効果を演劇的な処理を組み合わせることで、可能にしたのが長谷(および桃唄309)の創意なのだ。
 こうした手法はこの「おやすみ、おじさん」という作品にも生かされている。(続く)