『澤田知子展』&『遠藤秀平・藤本壮介展』@キリンプラザ大阪

澤田知子展「Maquerade」(キリンプラザ大阪)を見る。建築家による『遠藤秀平・藤本壮介展』と同時開催。
 MEMの澤田知子展の方は見てきたのだけれど、こちらはまだだった。会場に並んだ顔顔顔……。キャバクラ嬢、お見合い写真、就職のための面接用の写真、学校のクラス写真、コギャル。スタイルはさまざまなのだけれど、それが400枚も引き伸ばされて並ぶとある意味壮観。物量が喚起させる感動ってあるものだと思う。これがすべて澤田知子という人の一個人の顔でそれぞれ別人格を装うために1枚の写真のたびに衣装をかえたり、メイクを工夫してるんだと思うと、アート作品という枠組みをとっているとはいえ、なにが彼女をこうまでさせるのか。ちょっと尋常ならざる執念のようなものを感じて、思わず力なく笑ってしまった。
 hatenaのキーワードでこの人の項を検索してみると

「変装写真」で知られる写真家。1977年神戸生まれ。

2000年成安造形大学卒業、翌年同大学研究生修了 。

自動証明写真機で400人に扮した「ID400」や、お見合い写真を引用した「OMIAI」など様々な変装をすることで、自分自身と現代をユーモアたっぷりに表現、作品を通じて外見と内面の関係の曖昧さを観る者に問いかける。2000年、「キヤノン写真新世紀2000」特別賞受賞。2004年、木村伊兵衛写真賞(2003年度)、ニューヨークの国際写真センターのThe Twentieth Annual Infinity Awards Young Photographerを受賞。

 最初に澤田の個展を見たのはまだ西天満にあったころのギャラリーayaで、そこでは「魚河岸の女将」とか「銀座のホステス」などいろんな人に扮した澤田の写真が並んでいた。それでその時の第一印象は「これってただの変装じゃん」(笑い)。しかも、写真作品というけれど、「写真家といっても明らかに自分では撮ってないし」(笑い)。セルフポートレートでなにかになりきって写真に写るという形式の作品は東西を見渡してみるとシンディ・シャーマン森村泰昌がもっと高度な形式美によってやってしまっていることで、それに比べるとただ変装というか、コスプレしたみたいな澤田のものは中途半端に思われて、その変装自体も演劇などを見慣れている私の目から見れば「それがどうした」と感じられるものにすぎない気がしたし、なぜ彼女がこれほど評価されるのかがはっきりと分からなかった。
 ところが今回の個展を見て私のそれまでの見方は若干修正させられた。これまで彼女がやってきた個々の作品群をこういう風に俯瞰して見せられてきたときに、そこには森村やシャーマンが想定してきたのとは明白に異なる問題群が浮かび上がってきているのがよく分かったし、それはそれが写真である必然性という意味でも納得させられるところがあったからだ。
 写真であることの必然性というのはポートレイト(肖像写真)というものの果たしている社会的な役割に対する批評性ということであって、肖像写真というのはもちろん、アートとしての写真にも重要な一部分として存在するわけだが、大部分のものはパスポートの写真であったり、澤田が取り上げた見合い写真であったり、指名用にかざされているキャバクラ嬢の写真であったり、セルフ・アイデンティティーとの係わり合いにおいて使用されているものであることが多いが、それはそれらの写真の多くが「写真=実物」という1対1の対応関係を自明のものとして、前提としているからだ。もちろん、キャバ嬢の写真やお見合い写真によくあるようにそれが一種の虚構の上に作り上げられた約束ごとである*1ことは本音のレベルではだれもが気がついていることでありながら、そうでないように振舞うことが期待されている。
 澤田はそれを1対1ではなく、自分が変装してさまざまなキャラを演じわけ、それを例えば見合い写真、例えば証明写真という同一フォーマットの複数の写真に複製し、それを同時に提示することで「多対1」の対応関係を作ってみせて、その制度性をあぶりだしてみせる。
 それは逆の方向から見れば澤田の作品の特徴は写真のメディアとしての記録性をうまく利用しているということでもある。こうした澤田の作品を見る時にまず考えるのは「変装写真」あるいは「変装写真家」ということになっているが、そうではなくて澤田の本質は変装家であることにあるのではないかという疑問がある。もちろん、それはたぶんそうなのである。作品にかける時間に思いをはせてみると証明写真の作品などはその典型であろうが、実際の写真撮影というのはそれほどのことではなくて、大部分の時間は髪型のセッティングとそれに合わせたメイクにかける時間、そして、それ以前に衣装などを考え用意する時間にある。
 だからこそ実際問題としては写真というメディアではなく、パフォーマンスとしてそれをやるとということを考えてみればデモンストレーションとして一種類のそれを見せることはできるが、結果を見せるための準備に時間がかかりすぎて、変装家としての芸術を観客に見せるということは不可能なことが分かる。
 そして、メイクというものの本質を考えてみるときにそれは過程を不可視なものとして、結果だけを見せるものだということもあるだろう。この個展では写真以外にそれをコマドリしたものをアニメーションのように処理した映像インスタレーションもあったけれど、澤田のアートの本質はスチール(静止画像)つまり写真にあることは自然な形で了解できたのである。
 もっとも、澤田の作品を見て「ちょっと尋常ならざる執念のようなものを感じて」と書いたのは別の理由もある。一義的には澤田がということなのだが、男性である私には計りしれないところがあるのだけれど、澤田個人の営為がここでは歴史上の女性がこの「化粧」という行為にかけてきた執念のすさまじさを想起させるところがあって、今歴史上のと仮に書いたけれども、全世界の女性がどのくらいそれにエネルギーを注いでいるのかなどと考えると普段メイクなどという行為には縁遠い私のような人間には空恐ろしくなってくるようなところがある。
 その程度の理解だから、「化粧」にかかわる問題として「ジェンダー」「セルフアイデンティティー」などがフェミニズム的、あるいは社会学的にいまどういう風な問題群になっているんだろうというようなことについてはこれまでそれほど真剣に思索を試みたことがなかったのだけれど、澤田の作品には意識的にせよ、無意識的にせよ*2そういうことを考えさせられる糸口となりそうな要素が散見され、それが「現代アート」の枠組みでその作品を見た時に刺激的なこと*3だった。
  

*1:つまり、写真自体はシュミラクルであり、記号にすぎないから無限に改変可能だということ

*2:ガングロのコギャルに扮した澤田の写真などを見ていること例えばこういうある狭いエリアでのファッションやスタイルの流行がいったいどういうことなのかについて考えさせられるところがある。このガングロというかヤマンバ系の化粧の流行については以前なにかの著書で大塚英志宮台真司かが分析していた文章を読んだ記憶があるのだけれど、澤田の写真を見ていると文化人類学の資料写真みたいにも見えてくる

*3:キャバ嬢の写真などは単に化粧や髪型をいろんな風に変えているというだけではなくて、そこにはなにか記号論・図象学的な分析の対象にもなりそうなタイプの存在をその形式を意図的に模倣することで感じさせるところがあって、それがなんであるのかについても考えてみたい気にさせられた。お見合い写真についても同じ