チェルフィッチュ「体と関係のない時間」 @京都芸術センター

チェルフィッチュ「体と関係のない時間」 (京都芸術センター)を観劇。
 チェルフィッチュについてこれまでその本質は演劇であると何度か書いてきたのはその独自性が岡田利規の戯曲が上演に対して規定していく、それまでの演劇の戯曲とは異なる構造の新しさがあると考えていたからなのだが、今回の上演はやや違った。非常に実験的でラジカルな舞台ではあったが、残念ながらその試みが成功していたとは思えなかったのである。
 この舞台で岡田は言語テクストのナラティブな構造(時間の一方向の流れ)を解体していくために台詞の言葉を切断して、それをシャッフルするかのように前後を並べ替えて、さらに上演に向けての稽古場での作業としてその台詞の部分のうちのいくつかを抜き取るという作業を行ったらしい。その結果、舞台上の俳優はまったく意味がとれないわけではないが、前後の脈略がはっきりとは分からない台詞をぽつり、ぽつりと発話しながら、その台詞に合わせて俳優がこの集団に特有の身体の所作を行うことになった。
 この台詞はまったく意味がないわけではなく、続けて発話されるいくつかの言葉を続けて聴き、頭のなかでそれをもう一度つなぎあわせるような作業をすれば完全にこうだということは分からなくても、なんとなく意味が読み取れなくはないので、この舞台がはじまってしばらくは舞台に集中してその脈絡をなんとかたどろうと考えたのだけれども、しばらくして気がついたのはそれは本当に疲れきってしまうほど大変だし、それに気にとられていると役者の細かい動きなどを見ることがおろそかになってしまって、言葉を聴き取ろうと努力するだけで舞台をほとんど見ていないような状態になることに気がついた。
 それで、途中で今度は頭を切り替えて、台詞は半分捨ててダンスを見るように見てみようと考えたのだが、今度はこの断片的に聴こえる言葉が意味のないボイスないし例えば維新派がそうであるような単語のイメージの連鎖ではなくて、ばらばらにはなっているものの意味がどうしても無意識なところで気になってしまう。しかもやはりこの舞台は全体の構造がこの言葉によって規定されていて、それ以上の大きな流れがないため、今回の上演時間のような1時間という時間を舞台に集中することは私にはすごく難しいことが分かって、生理的に拒否反応を起こしそうになってしまったのだ。
 「試みが成功していたとは思えなかった」と書き、明らかに失敗と書ききれないのはひょっとしたら今回のこの舞台のようなスタイルが私には不向きだったかもしれないという懸念があるからだ。今回と同じようなフラストレーションは実は以前にも何度か感じたことがあって、それは邦楽としての語りが存在している日本舞踊、あるいは歌舞伎舞踊においてであった。つまり、私の場合、邦楽の語りのような極度に集中すれば意味がなんとなく分かるけれど、そうでないとほとんど聞き取れなくなる類の言語テキストに対応する時にそれに集中するとなぜか肝心の踊りの方、つまりビジュアルを見る能力が低下してしまって、目が留守になるということがよく起こり、その両方を無理やりしようと努力すると脳の処理能力をオーバーフローしてしまい全体の集中力そのものが失われて、頭がぼーとなってしまい気がつくと目も耳も両方留守になってしまうというような現象がよく起こるようなのである。
 経験則からいえば例えば音楽とダンスの関係ではそういうことは起こらないので、これは脳の言語野と視覚処理の部分との関係から引き起こされる現象のように思われる。
 さらに付け加えれば、これは記憶と言語の意味性の構造化の関係ということになるだろうが、今回の舞台を見ていて分かったのは、シャッフルされた言葉を並びかえる作業において、それが可能なのは4つから5つぐらいが限界で、それを超えて元に戻るのがどうやら私には難しいことで、時間が流れていき、それとともに言葉が意味を持つのはそれが文法による構造によって、意味性(つまりひとつながりの言葉以上のゲシュタルトのようなもの、あるいはイメージ)に変換されているからで、それなしには5つ、6つ、7つ前の言葉を聴いてすぐに記憶し続けているのがどうやら難しいようなのだ。
 そして、それを超える処理能力が脳に要求されると脳はどうやらダブルバインドのような状況に追い込まれてしまい、オーバーフロウして機能不全をきたすようなのだ。認知科学に詳しいわけではない*1ので、この現象が人間一般にそうなのか、それともこの方面に関する私個人の機能が弱いのか、あるいはこの舞台を見た時の体調が完璧によかったわけでもないので、処理能力が落ちていたのかもしれないし、そこのところにも若干の疑念があるのだけれど、以上の理由でこの舞台は私には厳しい舞台だったことは間違いない。
 ところが不思議なのは普段のチェルフィッチュの舞台はどうやらそれも別の意味での情報の脳内再構築を伴うもののようで、そうした作業が苦手な人が聞くところにおいてはあるようなのだが、いくらテクストが重層化されていようが、あるいは「こちらで台詞」「あちらで身体の動きだけ」「そちらで壁に字幕」だろうが、それぞれが時系列に沿っていて意味性や関係性に還元可能なものであればそちらは私にとっては全然苦ではないようなのだ。 
 もはやチュルフィッチュの実際の舞台からは数千kmも離れたことを書いているような気がするが、そういえば以前、イヤホンガイドではしんどかった文楽を字幕つきで見た時になぜこんなに楽なのかと思うほど楽に鑑賞できたことに驚いたことや、英語も字幕ならば簡単に読みとれるのになぜヒヤリングがこれほど苦手なのかと悩んだり、ヒヤリングのなかでもクラブのような断片的に聴こえるものを再現して再構築する能力がなぜこんなに低いのかに気がついて愕然とさせられたことなどもあって、それを単純にヒヤリング能力のせいにしてきたのだが、ひょっとしたらそういうことがすべて私の脳の処理能力の方向性で説明できるかもしれないという気がしてきた。  
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*1:認知科学と演劇の関係で言えば青年団平田オリザがしたような同時多発の会話で2つの会話が重なった場合、カクテルパーティー効果といって通常の人間にはそれを選択的にあるいは同時に聴き取る能力があるが、3つ以上重なったそれを同時に区別して聴き取ることはできないという実験結果がネット上に紹介されていて、それを興味深く読んだ記憶がある