ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ「アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症」(河出書房新社)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

 ひさしぶりに書店に出掛けて文庫の棚を覗いてみると、「こんなものが文庫になっていたか」と思わず仰天。懐かしさもあって、思わず購入してしまう。もっとも、まだ最初の方の何ページかを眺めているだけぐらいの状態なのでひさしぶりに読んでどう思ったかなどの感想は後ほどということに。この本、以前に翻訳が出版されたときには内容が紹介されてから、翻訳されるまでに非常に長いタイムラグがあったことや、出版された本がやたら重厚*1だったのだけを記憶していて、肝心の具体的な内容の方はほとんど忘れはてている。それが新訳でしかも文庫本ででるというのはある意味快挙ではないだろうか。
 私と同世代の人間にはいわずもがなのことではあるが「懐かしくて」について少しだけ説明すると、昔、浅田彰の「構造と力―記号論を超えて」*2という本がベストセラーになった時代があって、それが言ってみれば「ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ」の思想を中心に現代思想を俯瞰するという解説書(入門書)で、それによって私たちは浅田がパラフレーズした形でのドゥルーズガタリの思想とは遭遇することができたのだけれど、当時はフランス語が読めない自分のような人間にとっては原典を当たりたいと思っても、その主著である「アンチ・オイディプス」さえ翻訳されていないというフラストレーション(隔靴掻痒の感)を感じていたわけだ。
構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

 個人的なことにはなるけれど、「構造と力―記号論を超えて」に触発されて、構造主義以降の現代思想の面白さに遭遇した私はミッシュル・フーコーの「知の考古学」「言葉と物」をはじめ、ソシュールレヴィ=ストロースデリダラカン、系譜は違うけれどグレゴリー・ベイトソンヴィトゲンシュタイン*3現代思想についての著書を次から次と濫読した時代があった。ところが、浅田がもともとそのために「構造と力」を書いたと思われた「アンチ・オイディプス」の方はいくら待っても翻訳が出版されず待ちぼうけが続いて、ようやく出版されたのはマイブーム的に現代思想について盛り上がりがあった時期よりもだいぶ後のことになってしまった。
 それでも、せっかく購入したのでそれを読んだ後、せっかく出版されたので、書評がどんな風にでるかと新聞の読書欄を毎日眺めながら楽しみにしていたのだが、結局、評者が敬遠したのかその時点では書評らしい書評も新聞には載らなかったという(笑い)。
 そういうわけで私自身もジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの思想には「戦争機械」「器官なき身体」「リゾーム」「ノマド」「スキゾ/パラノイア」……という彼らが生み出したテクニカルタームに興味は持っても、レヴィ=ストロースデリダと比べれば思想的影響はほとんど受けてはいないのが実情。もっとも、これは印象にすぎないのだが、日本での受容のされかたも、デリダが浅田世代により「脱構築の思想家」として紹介された後で、今度は東浩紀らによってエクリチュール論の側面からの再評価のような動きがあって、現代のおけるもっともラジカルな思想家の地位を不動のものとしているのに対して、ドゥルーズ/ガタリの方は80年代のバブル期のあだ花のように扱われていて不遇な印象があるのだが(笑い)。そういえば、浅田彰自身デリダについての発言はあっても、ドゥルーズ/ガタリについてはいつのまにかすっかり沈黙してなかったことにしようとしている印象がある。
 まとまった著作が単行本としては出てないのでなんとも言いがたいのだが、少なくとも「構造と力」に関する私の読解ではあの本ではデリダ脱構築ドゥルーズ/ガタリリゾームの構造的比較をしたうえで、はっきりと後者に軍配を上げていたはずだと思うのだが、あれはどうなったんでしょうか。立場を変えたのならそれでもかまわないから、落とし前だけはつけてほしいのだがなあ(笑い)。表象文化学会で浅田彰チェルフィッチュの悪口を言ってたらしいとうわさが聞こえてきて、それでこんなところで「江戸の敵を長崎で討つ」ようなことをしてるわけではないよ(と思うけれど)、そうかもしれない(笑い)。

浅田彰氏の白井剛の公演のレヴューへのリンク
http://www.kanazawa21.jp/theater21/2006/arditti/arditti.html
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*1:内容ももちろんだが、持ち運ぶことが困難なほど、本当に物理的にぶっとくて重かった(笑い)

*2:読んだことがない人に簡単に説明するとチャート式現代思想入門のような本だと思ってくれればいい。今では類書も出ているけれど、思想相互の関係性を分かりやすく説明したという意味では画期的であったし、これ自体が思想的著作だといえわけではなく、入門書なんだという前提さえ間違わなければ、今読んでもためになる本だと思う。もっとも分かりやすいというのは乱暴だということでもあって、ここではそれぞれの思想の本質であるディティールは浅田一流のレトリックの前に消滅してしまっていることも確かなのだった。

*3:こちらは柄谷行人の著作でその存在を知った