デス電所「夕景殺伐メロウ」@精華小劇場

デス電所「夕景殺伐メロウ」(精華小劇場)を観劇。

 前回公演「音速漂流歌劇団*1から約1年ぶりのデス電所本公演である。「音速漂流歌劇団」のレビューではクロムモリブデン少年王者舘の2劇団に酷似したところが散見され「自らのスタイルを確立したとはいえず、いまだ模索中なのではないか」と書いたのだが、今回の「夕景殺伐メロウ」では好きゆえの模倣というレベルからは完全に抜け出して、自分たちならではのスタイルを確立しつつあることを確認することができた。これまでに見たこの劇団の作品としてはベストアクトといえると思う。
 舞台の上手にブースがあり、そこに音楽を担当する音楽・演奏の和田俊輔が陣取っていて、全編が和田の生演奏のオリジナル音楽によって進行していく音楽劇というのが、この劇団の最大の特徴であろうか。オリジナルの音楽の生演奏(和田俊輔)と劇作(竹内佑)の関係では維新派の内橋和久・松本雄吉がまず連想されるが、和田俊輔の場合はミュージカルのパロディなど、劇中で使用する音楽ジャンルの幅広さからいえば劇団☆新感線の岡崎司・いのうえひでのりと似ているといっていいかもしれない。ただ、世代の違いもあってか、岡崎=いのうえコンビのテイストが基本的にはハードロックを基調にしているのに対して、和田の作る音はもう少し今風であるところに大きな違いがあるが、そういう点で考えれば今回東京公演の制作をヴィレッジが担当したりと、いのうえがこの集団に肩入れしてるというのはよく分かる。
 もっとも劇作自体のスタイルでは竹内佑といのうえひでのり(あるいは中島かずき)との間には大きな違いがある。劇団☆新感線の舞台が分かりやすいナラティブ(物語)を中心にして進行していくのに対して、竹内のはそうではないからだ。
 この「夕景殺伐メロウ」では冒頭の少女(山村涼子)が額縁(絵)のなかの少女(奥田ワレタ)と会話を交わす場面からはじまり、コント風のシークエンスや「劇中劇」として上演されるミュージカル風、活劇(ゲーム風)の場面まで一見無関係にも思われる複数の場面がコラージュ風に同時展開していく。
 2人の少女の場面ではリリカルに最後に額縁の少女が見たという夕日のイメージが繰り返して語られ、逆にコント風の場面ではいかにも「オタク」風の登場人物が現れて、馬鹿馬鹿しい会話を交わす。デス電所の舞台について語る時にはモチーフとしてのオタク性*2というのは欠かせない要素であり、そこのところがクロムモリブデン少年王者舘、あるいは先ほど言及した劇団☆新感線との大きな違いである。もちろん、前述の3劇団にもカルトともいえる作者の趣味性を作品に強く反映させるような部分で、いわゆる「オタク」との共通点はあるのだが、例えばクロムモリブデン青木秀樹の映画に対する趣味性などは「オタク」的ではあっても、彼らは「オタク世代」ではないので竹内が提示してくるようなものとの間には質的な違いがあるからだ。
 私自身は「オタク世代」ではなく、いのうえひでのりらと同世代なので、この辺の微妙な差異については「いわくいいがたい」部分があるのだが、竹内がその劇作において「オタク」的なものをどう扱っているのかということは非常に興味深い部分がある。というのは、この芝居では指導者であるらしい「先生」の指示のもとに世界を「萌え」であるか「萎え」であるかを分類している人々とか、やはり、「先生」の指示のもとに「ボーイズラブ」についてのブログを制作している人たちとかが登場して、竹内はそれを笑いというか、揶揄の対象として描いているのではあるが、それは外側の目から「オタク」を変な人として排除しているような笑いではなく、自らも「オタク」であると自任したうえでの自虐的なギャグとしてそれをやっているような自己パロディ性がうかがえるからだ。
 つまり「オタクによるオタクのためのオタク演劇」というのがデス電所「夕景殺伐メロウ」ではないか、と思うのだ。そうであることのひとつの根拠となりそうなのが、モチーフとして登場する「オタク的なるもの」だけではなく、この「夕景殺伐メロウ」という作品の構造そのものが持つ「オタク的なるもの」との近親性である。
(以下ネタばれあり)














 それは「セカイ系」の物語との近親性である。「セカイ系」については以前五反田団の「ふたりいる景色」のレビュー*3で少し解説したから興味のある人はそちらの方を参照してほしいが、要するに「新世紀エヴァンゲリオン」のような構造を持つ物語のことだと思ってくれていい。
 「夕景殺伐メロウ」で描き出される世界は多重の入れ子のような構造をとっている。まず、物語の基調をなすのはオタク的な登場人物が「世界にあるものを『萌え』と『萎え』に分類していく」とか「美青年風のキャラといかにもオタク風の風貌の男性の2人がボーイズラブについてのブログを製作している」といったオタクコント風の場面、さらに「地球に近づくつつあるらしい太陽の大きさを観測している男女」の場面。しばらくすると、これらの人々は「粒子」というカルト的な集団のメンバーで「先生」という指導者の命令のもとにこれらの行為を行っているのだということが明かされる。ここにはSF的であったり、終末論的であったりする匂いがにおうし、太陽が近づくことで終末を迎えようとする世界の出来事という設定にどうやらなっていて、それが額縁のなかの少女が叫ぶ「夕景」という言葉と響きあう。
 ところがこの世界に殺戮天使(?)に扮した黒い服を着た女(羽鳥名美子)が乱入してくることで、この世界は再び変容する。どうやら、ここは近未来の滅びつつある世界ではなく、現実の世界であり、この「粒子」という集団はもともと「犯罪被害者の会」の人たちが作った集団がカルト化(狂信化)したもので、終末論的な世界というのはあくまで彼らの集団妄想。「先生」の言葉は額縁の少女と冒頭で話していた少女が「先生」の言葉として取り次ぐものなのだが、額縁の少女の場面で「絵は話をすることはない、私はあなたが話させてるのよ」というような言葉が何度も繰り返されるように「先生」というのが実際に存在するのかどうかさえはっきりとしなくなってくる。
 舞台の後半部分では「先生」の命令により上演しなさいと言われたという演劇の場面が「劇中劇」として提示されて、そこでは下ネタ満載のめちゃくだらない*4ミュージカル場面と黒服の女が上演させる皆殺しの芝居などが交錯、ここで一度はこのカルト集団が犯罪者への復讐のためにその家族を追い詰め挙句の果てに殺していることが明かされる。
 ところが舞台の最後になって再び物語は逆転。この少女は実は放火によって妹を含む家族を焼き殺していて、この物語全体がこの女の子が記している嘘日記のブログのなかの彼女の妄想だということが明らかになるからだ。
 この舞台はおそらく現実世界で起こった事件のうち、ネットアイドルの放火事件と奈良の少年の放火殺人事件を元に構想されたものではないかと思われるが、作家の関心は現実の事件そのものというよりは「放火」ということが連想させるイメージに触発されたのではないか。最後の場面で実は「夕景」と思われた額縁の少女の話す情景が実は火事によって火に巻かれた死んだその少女が死ぬ前に見たかもしれない最後のイメージだということが明かされる。ただ、この芝居のなかではそれさえも残された方の少女の妄想なのか、それとも実際にそうなのかは判然とはしない。というのはこの舞台のなかで何度か主人公の少女がマッチを擦りながら叫ぶからで、これは明らかに「マッチ売りの少女」なわけで、考えてみればアンデルセンのあの有名な童話もマッチをすることで貧しい少女が一瞬見られる妄想の物語と読み取ることもできる。つまり、ここには「妄想」⇔「マッチ」⇔「放火」の連想が働いていて、それがこの舞台のイメージを支配しているということもできるからだ。
 さて、いささか長い前置きになってしまったが、ここまでくれば「新世紀エヴァンゲリオン」と「夕景殺伐メロウ」の構造の類似性は明らかであろう。この2つの物語はどちらも自意識過剰の少女(少年)の妄想の世界を描いたもので、ネット上のフリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』の定義のように狭い意味での「セカイ系」が

「世界」(セカイ)には一人称の主人公である「ボク」と二人称となるヒロインあるいはパートナーの「キミ」を中心とした主人公周辺しか存在しないという設定の元、救世主である主人公周辺の登場人物の個人的行為や精神的資質・対人関係・内面的葛藤等がそのまま「世界」の命運を左右していくという形で物語が進行していく作品スタイルを指す。

とするのならば「夕景殺伐メロウ」を「セカイ系」というにはいささか語弊があるのだが、ヒロインである戦闘美少女が登場する「セカイ系」の物語を少年の妄想系物語とすることができるとすれば「夕景殺伐メロウ」はいわば少女による妄想系物語で、「妄想の中身」自体は異なっても、この2つの物語はほぼ同一の構造を持つ双子のような存在と考えることもできるからだ。
 そして、いずれも物語においても本来「入れ子」であるはずの「妄想の外側=現実界」はその存在があることが暗示されはしてもはっきりと明示されることがない。そういえば現実(放火事件)を暗示しながらも、マナ・カナを連想させるネーミングとそっくりな服装から双子を暗示させる妹の存在も「額縁の女」=妹との会話の場面が明らかに主人公の妄想だということからしても、妹(=主人公の影)つまり自分との会話との解釈も成り立ち、その場合はこの物語全体が外側を持たない「妄想の塊」という風にも見なされ、『萌え』と『萎え』の境界線が殺戮天使の存在によって無化されていくように「妄想/現実」の2極対立は無化されてもいく。こうした「妄想の極北」には天野天街が存在すると思うので、表面的な類似は薄れた今回の作品だが、演劇における世界観という意味ではやはり深い影響関係は続いているのかもしれない。
 


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