シャッツカマー(schatzkammer)「レインコード」@京都アトリエ劇研

シャッツカマー(schatzkammer)「レインコード」(京都アトリエ劇研)を観劇。

[構成・演出]森本達郎/夏目美和子
[振付・出演]松本芽紅見/野田まどか/夏目美和子

 schatzkammerは構成・演出の森本達郎とバレエダンサーの夏目美和子によって結成されたコンテンポラリーダンスユニット。もともとは映像も多用するようなマルチメディアパフォーマンスも志向しており、「表現手段として映像・ダンス・音楽などの要素を柔軟に用いて、人間の暮らしや社会の風景に潜む’おかしみ’や’哀愁’といったものを抽出し、そこから新たな世界を作ることを目的とする」というようなことをコンセプトとして提唱していた。
 旗揚げ公演と目された2002年12月の「さくら荘」という作品は見ていて、これがけっこう面白かったので、お薦め芝居などでもj.a.m.Dance Theatreと並べて「関西の若手カンパニーでは京都のシャッツカマーとともに今後が楽しみな存在で、まだまだこれからという点はあるけれども、カンパニー志向の集団は関西では珍しいので頑張ってほしい」と期待をかけていたのだが、2004年に大阪のギャラリーwrks.でした公演を最後にどうやら森本達郎が活動休止。その後、しばらくは夏目美和子の単独での公演などにschatzkammerの名を冠していたことはあったが、その存在は急速にフェードアウト状態となっていた。 
 そういうわけでひさびさの復活公演となったわけだが、これが本当に期待にたがわぬ好舞台であったのだ。関西ダンス界の今年最大の収穫といっていいかもしれない。この作品では映像はいっさい使われていないのだが、それでも普通のダンスとは異なる志向性によってこの舞台は構築されていた。この舞台を見て改めて分かったのschatzkammerにおいての森本達郎の存在はきわめて大きいということだ。森本の場合、振付をするわけではないので、「さくら荘」などでもいったい何をしているのかということが必ずしも明確には分からなかったのだが、この「レインコード」と夏目が単独で上演した作品を比較してみると、クレジットでは連名により[構成・演出]と提示されてはいても、
このユニットでイニシアチブをとり作品の方向性を決めているのは森本であることははっきりと見えてきた。
 森本による演出はダンス的というよりも、誤解を恐れずにあえて言えば、美術的ないし絵画的な印象。舞台装置のいっさいないアトリエ劇研の空間はブラックキューブを思わせるのだが、この無機的ともいえる空間に照明の効果を存分に活用して、光と闇の空間を作っていき、そこにダンサーをある時はまるでオブジェのようにまたある時は生身を感じさせる人間として、配置し、ある時は動かしていくことで、空間を造形していこうという強い意志のようなものをこの作品からは感じた。
 冒頭暗闇のなかからほのかな光が浮かび上がってきて、そのほとんど見えるか見えないかの境界線のようななかで、白い衣装のダンサーがくるくるとゆっくり旋回してその速さを微妙に速めていくところからこの作品は始まる。
そして、それがしばらくすると暗転して、また同じような動きが続いた後、今度は空間中の一カ所だけ明かりが入ったところにうずくまったようなダンサーがいるのが見えたかと思うとまた暗転。しばらくはそれがだれなのかもおぼろげにしか分からないためにこういうダンサーの動きや表情がほとんど見えない照明に関してはそれを安易に多用するともっとちゃんと見せてくれよとか思ってしまうのだが、不思議にこの舞台に関していえばそういうことはいっさいなかった。
 それはそれがクリシェめいて感じられる場合は往々にして踊っている方がそれが実際にどう見えているのかについての自覚があまりないのではないかと感じることが多いのに対して、ここにははっきりとした美学が感じられたからだ。
 バレエダンサーでバレエ団ではじゃれみさの寺田みさこの後輩にあたる夏目美和子はもちろんそうだし、アローダンスコミュニケーションの松本芽紅見も関西で屈指のいわゆる身体の利くダンサーなのだが、前半部分のムーブメントはシンプルかつミニマルなもので、ダンスにおけるテクニック的なものを誇示するような動きはいっさいない。それなのに見る側がそれを飽きないで見ることができて、舞台上にもある高いテンションのようなものが漲っていた。
 もうひとつ感心させられたのは夏目のソロダンスなどを見ているとどうしても無意識に動きの処理のなかでバレエの動きが出てきたり、あるいは松本芽紅見にしてもどうしても無意識によくでてくる得意な動きというものがあるもので実は以前にやはりschatzkammerを冠してこのアトリエ劇研で上演された松本、夏目のデュオなどでもそういうことは散見されたのだが、この作品では一連の動きのなかに統一感があり、だれかひとりが振り付けてそれを振り移したわけではないのにそういう個人の属人的な動きがかなり周到に排除されていて、それぞれソロ作品ではあまり見ないような動きが3人のダンサーの関係性のなかから生み出されていたことだ。初めて参加した野田まどかについても同じようなことがいえ、さらに彼女の場合は最近の作品では感情を爆発させるようなダンスが多いのにもかかわらず全体に抑えた調子でありながら、この作品のなかで見せる表情がきわめて印象的なことが何度かあって、そういうものが引き出されていることも見ていてすごく刺激的だった。
 ただ、惜しむらくは前半の部分に流れている静謐感のある張り詰めた世界がこの上演では後半、ダンサーたちが詩のようなテキストを読み始めたり、歌を歌ったりしはじめる場面になるとなくなってしまうことで、後半の部分には後半の部分だけを単独で取り出せば面白いところも十分ありはするのだが、大きな流れのようなものが途切れてしまったように感じられたことだ。
 実はそこに至る前に3人のダンサーがそれまで着ていたレインコートのような衣装を壁にかけたところで、舞台が一度暗転するのだが、ここは途中の場面というよりはそれまでの場面がそこで終止符を打たれるという印象が強かったこともあって、作品がそこで終わったと思い、「これは今年のベストの作品かもしれない」と興奮して拍手を準備していた。
 ところがそれ以降も作品が続くし、作品の雰囲気もその後と前では違うので、自分のなかではもう終わってしまっている作品について一度切れた糸を繋ぎ直すのは正直言って難しかった。個人的にはこれは本来、別々の2本の作品として成立するはずだった要素を1本の作品に入れてしまったことから起こった構造的破綻に見えてしまったのだが、どうだったのだろうか。後半がないほうがいいと思ってしまうほどに前半部分の完成度の高さが抜群だったと感じられたせいもあるのだが。いずれにせよ、これで再び関西の若手ダンスカンパニーの期待度トップ候補に躍り出たschatzkammerの見事な復活に快哉を叫びたいと思う。 
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