ロヲ=タァル=ヴォガ「YANAGITA」@アートコンプレックス1928

ロヲ=タァル=ヴォガ「YANAGITA」(アートコンプレックス1928)を観劇。

《出演》
草壁カゲロヲ・近藤和見・鮫島サトシ・海野東子・星川ユリコ・片桐慎和子・タナカ.G.ツヨシ・岩間典子・Goya・ダルガーリ ミヤオーカ・山中伸子・赤井正宏・土居弘輝・ハ スジョン・栄 英里香・窪田史恵・やまおきあや・美月チヨコ・谷内一光・中村美晴・延山未来

《スタッフ》
脚本・演出・音楽:近藤和見
舞台監督:谷本 誠(CQ)・塚本 修(CQ
舞台美術:水波 流(リッジクリエイティブ株式会社)・乃村健一(n.o.m.)
照明:柿嵜清和
照明操作:高円敦美
音響:椎名晃嗣(リッジクリエイティブ株式会社)・粕谷茂一(Slim Chance Audio)
音響補:岡見 賢
映像制作:サカイヒロト(WI'RE)
VJ技術:林 保美
宣伝美術:北川克也・北川 瞳(スリープデザイン研究所)
表紙絵:足田メロウ
衣裳:敷島めぐみ・後藤美和子・知栄・近 史子・藤本卓万
ヘアメイク:新保友香・根津裕子・中村幸弘
記録映像:平田泰規(Pinhole Lodge Syndicate)
記録写真:井上嘉和・中村文博
美術:池田さやか・内田ユッキ・中野麻衣子・平本知枝美・宮城暢子・risa

ロヲ=タァル=ヴォガはともに維新派出身の草壁カゲロヲと近藤和見が結成した集団。これまで吉田神社での野外劇公演「葉洩れ陽のジギタリス」やOMSでのパフォーマンス公演「数独I〜Phenomenon〜」、会場を変えて関西10ヵ所での公演を行った【 isotope 】などを手掛けてきた。これまでの舞台はパフォーマンス色の強いものが多かったが、昨年初めに上演された「Ato-Saki」*1では身体表現的な要素を残しながらも、演劇的な要素の強い舞台へとシフトチェンジ。今回の新作「YANAGITA」もそうした方向性を受け継いだ舞台となった。
表題の「YANAGITA」とはなんなのかと思ったら、柳田國男(やなぎた・くにお)の「やなぎた」なのであった。ロヲ=タァル=ヴォガの約1年ぶりの新作、本公演は日本民俗学創始者である柳田國男の評伝劇であった。評伝劇とは書いたがこの芝居は柳田の伝記的な事実を単純に積み重ねていくような方法はとらない。この芝居の下敷きは「遠野物語」であって、芝居の前段は農政官僚であった柳田が遠野に伝わる伝承の語り部である佐々木鏡石(喜善)と出会い、遠野の伝わる伝承に魅せられて、「遠野物語」を著すまでの出来事が比較的に会話劇に近いスタイルで語られる。ただ、この舞台がユニークなのは前段で佐々木の口から語られた物語が、芝居の後半ではパフォーマンス的な身体表現を駆使して、ビジュアルとしても展開されていくことで、ロヲ=タァル=ヴォガの場合、演劇的に展開される場面とパフォーマンスとして展開される場面がともすると、離反してしまうきらいがあったのに対して、この「YANAGITA」は歴史的な事実に近い場面(会話劇に近いスタイル)と「遠野物語」の幻想の世界(パフォーマンスの部分)が相呼応して、舞台上に柳田國男の世界を示現されたと思われるところがあって、その意味では今回は作演出の近藤和見が自分たちのスタイルを行かせる素材として、うまく鉱脈を掘り当てたと思わせるところがあった。
 俳優では草壁カゲロヲがよかった。この人はよくも悪くも維新派時代から抜群の存在感ながら、なにを演じても
草壁カゲロヲでしかない、ようなところがあったのだが、今回は役柄を作りこんで、ヤナギタ役を熱演。こんな風に役を演じているのは初めて見た気がするが、新境地といってもいいのではないか。もっとも最後の翁のようなキャラを演じるところはカゲロヲ以外のなにものでもないのだけれど、まあこれはしょうがないだろう(笑い)。
 それ以外では「葉洩れ陽のジギタリス」「数独I〜Phenomenon〜」以来ひさしぶりの出演となった片桐慎和子が印象的だった。実は彼女の演技については最初、老人の役として登場するのだが、そういう演技をすればできるはずの人なのにしないので、そのことに違和感を感じたのだが、それはおそらく演出家の演出意図に沿った演技プランであって、後半若い女性として登場する部分を含めて、全体を見ればそれでも若干の違和感はないわけではないけれど、リアリズムというわけではないのだなということも分かってきて、少女=老女の二重性をこの演技によって表現したかったのではないかとそれなりの納得はできた。ただ、違和感という風に書いたがそういう危ういところも含めて、彼女の不思議な存在感はいつもと比べると意外にリアルな演技でヤナギタを演じていたカゲロヲの存在と実に好対照でもあって、この対比がこの「YANAGITA」という舞台のトーンを作り上げていたのも確かなのである。
 すべてがベストマッチとはいいかねる部分もあったのだが、舞台美術、映像、照明、音響といったスタッフワークの総合力はこの集団の最大の魅力で、今回は昨年の本公演「Ato-Saki」に続いての参加の美術作家、乃村健一(n.o.m.)に加えて会場となったアートコンプレックス1928のスタッフで電視游戲科学舘などの舞台監督・美術も担当する水波流(リッジクリエイティブ株式会社)、映像にサカイヒロト(WI'RE)、舞台監督に谷本誠(CQ)・塚本修(CQ)と強力な布陣。劇場の全面協力もあって、あのアートコンプレックスの舞台に本水を使った装置を設営し、遠野の幻想空間を実現したスタッフワークの力には感心させられた。
 難をいえば、今回も課題は脚本にあったかもしれない。そこがこの集団の最大の問題点だと以前にも書いたが、柳田國男の生きざまはある程度表現できてはいたが、遠野の伝承を通じてそこに柳田が読み取ったのはなんなのかという柳田の学問としての民俗学についての切り込みはいまひとつの感がいなめない。後段に少しだけそれを思わせる描写はあるけれど、あまりに断片的。実は近藤が書いた脚本をそのまま上演したら、4時間以上の上演時間となり刈り込まざるえなかったという事情もあったらしいが、新人じゃないのだし、いつまでもそうじゃ困るのである。
 もっとも前回の「Ato-Saki」などと比べると舞台を見ている時にはパフォーマンスの迫力やビジュアルプレゼンテーションの面白さに目がいって、それほど気にならなかった。後半が舌足らずになっていくところを戯曲以外の演劇的な魅力でうめていったのが今回はある程度成功していたし、描かれる世界のディティールという意味では前半部分は悪くない出来栄えであった。ただ、そうであるだけにそこのところがもう少し突き詰められていたら、より深みのある傑作になったのにと惜しまれたのである。
 今回の舞台を見て気がついたのはロヲ=タァル=ヴォガの上演形式として、作家を取り上げて(柳田國男は完全な意味での作家とはいいがたいが)、その伝記的事実と作品内容(幻想世界)を交差させるというスタイルはひょっとするとこの集団のひとつの方向性の雛形になりえるのではないかということだ。実はこれまでの作品においては近藤和見の現代離れした文学青年ぶりには少し辟易させられるところがないでもなかったのだが、この手法を使ってということであるならば、夏目漱石泉鏡花芥川龍之介三島由紀夫らほかの作家についてもちょっと見てみたいなという気にさせられたのである。カゲロヲの文豪シリーズ、案外いけるんじゃないかと思うがどうだろうか。
人気blogランキングへ