「Comical&Cynical 韓国と日本の現代写真 二人の女性ディレクターから見た一側面」

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【日本】浅田政志、小松原緑、みとま文野、佐伯慎亮、渡邊耕一、池田朗子、山下豊、梅佳代
【韓国】申恩京、波惹、嚴殷燮、金奎植、金東鈴、盧順澤、金華用、河惠貞

表題の通りパク・ヨンスク(写真家)と綾智佳(サードギャラリーAyaディレクター)という日本・韓国の女性ディレクターがキュレーションを担当。それぞれ8人づつ全部で16人の写真家を選んだ日韓交流写真展である。
実は写真以上に元々プールだった地下の空間を利用した展示空間ならびにその使い方が面白いのだが、それがどんな風かはYOU TUBEに掲載された以下の動画でも見ることができるので参照してみてほしい。


 選者の趣味の違いというのも多少は勘案しなければならないとは思うが、一言で現代写真といってもいろんなアプローチがあるなかで、日本と韓国ではひとりひとりの個性の違いを超えて、方向性の違いが感じられるのが興味深い。もちろん、どちらの国の写真もかなりのバラエティーを持たせた選択とはなっているので、若干乱暴な区分けになることは承知のうえでいうと、韓国の写真家の作品が社会に対するジャーナリスティックな切り口をストレートに反映したものが主流なのに対して、日本の写真はよりコンセプチャルで現代美術よりだったり、より個人的な感性を拠り所にしているものが多いということがいえるかもしれない。
 日本の写真家では梅佳代が面白かった。「シャッターチャンス祭り」という人を食ったようなネーミングがその写真のイメージとぴったり。日常のなかから決定的な瞬間(シャッターチャンス)を切り取ったいわゆるスナップ写真なのだが、写真から写真家と被写体のつばぜり合いのような関係性が浮かび上がってくるような感覚が写真を見る側にもビビッドに感じられるのが面白い。つまり、梅佳代は被写体に対して、暴力的に迫っていくのではなくて、かといってあたかもそこに写す主体である写真家が存在しないかのように決定的な瞬間を客体として切り取るという虚構を擬態するわけでもなく、言ってみれば被写体と同じ目線の高さに写真を撮る側の主体もあるという感覚。ここから生まれてきた写真が魅力的なのだ。最近「情熱大陸」でも紹介されたようなのだが、番組を見逃してしまったのは残念。

 それとはまったく対極の演出写真の典型ではあるが、浅田政志の「浅田家」も面白かった。これは浅田自身と兄と両親の4人(つまり浅田家)がヤクザ、ロックミュージシャンなどを演じて、それを写真として撮っているもので、コンセプト的には澤田知子などの延長線上にあると見ることもできるが、そこに介在してくるのが家族でしかもそれを演じていることを家族総出で楽しんでいるのじゃないかという雰囲気が写真から滲み出てきている。そこのところが面白い。
 写真なのか写真を使ったインスタレーション(美術展示)なのかという境界線上の展示が池田朗子、渡邊耕一と2点あったのも最近の日本の現代写真のある傾向を示しているといえるだろうか。これもパソコン画面によるスライドショーという展示であったが少女漫画に登場するような「ボーイズ・ラブ」の世界と写真を融合させた小松原緑の「サンクチュアリ」もこちらは現代美術などでよく見られる「オタク」との近親性を感じさせる*1意味で、特徴的だと思う。こちらは単に演出写真というだけではなく、実物の男性(少年)の写真を撮影して、その顔の部分を少年のようにメイクした女性のものとパソコン上でコラージュして組み合わせるという「アイコラ」に使われるような技法を用いて、実際には存在しないような理想の美少年を作り上げるという凝ったことをしていて、コンセプト的には写真として考えると、やなぎみわを思わせるところがあるのだが、アウトプットとしての作品の質感はまるで違う。こちらは作品としてはすでに一度、今回のディレクターである綾智佳の運営するサードギャラリーAyaで見たことがあるのだったため、梅佳代のような初めて見た驚きには欠けるところがあったが、彼女も次の一手がどんな風になるのか楽しみな作家である。
 韓国の写真家の作品もここに選ばれた日本の写真だけではなくて、日本の現代写真全般と比較してみた場合にそのコンセプトにおいては差異よりも共通点を感じさせるものもないではないけれど、その場合には逆に似たコンセプトのものが作家の微妙なアプローチの違いで、どれほど異なった感触のものとして立ち現れてくるかが伺えて、そこにも興味を引かれた。こちらで面白かったのは申恩京の「結婚式場」。コンセプト的には都築響一がラブホテルを撮影した「Satellite of LOVE―ラブホテル・消えゆく愛の空間学」などを連想させるところがあるのだけれども、「キッチュな感覚」というのには共通点があっても、都築のがそれを単純に面白がってる感じなのに対して、こちらからはもう少し微妙な間合いのようなものが感じ取れる。あるいは金華用の「ラ・ラ・ラ 結婚プロジェクト」にしても日本人である私の目から見ると、伝統的な価値観を否定する、あるいは揶揄するような内容のものを製作する場合になんでもありの日本と比べると幾分、面白ければなんでもいいというような態度を取りにくい社会的な規範の拘束力の強さを感じたりするのだが、これは実際のところはどうなのだろうか。

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*1:より正確に言うなら「ヤオイ」だろうが