新感線プロデュース・いのうえ歌舞伎☆號「IZO」@シアターBRAVA!

新感線プロデュース・いのうえ歌舞伎☆號「IZOシアターBRAVA!)を観劇。

 作:青木豪[グリング] 演出:いのうえひでのり
 美術:堀尾幸男 照明:原田保 衣裳:小峰リリー 音楽:岡崎司
 音響:井上哲司 音効:大木裕介 振付:川崎悦子
 殺陣指導:田尻茂一、川原正嗣、前田悟 アクション監督:川原正嗣
 ヘア&メイク:河村陽子 小道具:高橋岳蔵 特殊効果:南義明
 映像:上田大樹 大道具:俳優座劇場舞台美術部 歌唱監督:右近健一
 演出助手:山崎総司 舞台監督:安田武司 宣伝美術:河野真一 制作:柴原智子
 エグゼクティブプロデューサー:細川展裕
 劇中楽曲
 「IZO メインテーマ」作曲:岡崎司 ヴォーカリーズ:半田美和子
 「よさこい節(高知民謡)」アレンジ:岡崎司 歌:木津茂里
 「声」作詞:山野英明 作曲:岡崎司 歌:奈月チョビ[劇団鹿殺し]

 劇団☆新感線は好きな劇団のひとつであるのだけれど、チケットが簡単にはとれなくなっていることもあり、最近は以前のようには皆勤というわけにもいかなくなってきている。そういうわけで、この大阪日記で過去の日記を検索してみたところ、直近では「朧の森に棲む鬼」「犬顔家の一族の陰謀」は見たけれど、「荒神〜AraJinn〜」「吉原御免状」「メタル マクベス」と見逃していて、それほど胸を張って新感線ファンですといえる立場でもなくなっている。
 そういうわけでいのうえ歌舞伎はひさしぶりに見たのだが、ちょっと感じが変わっているので当惑させられた。新感線特有の(と私が考えていた)遊びがほとんどなくなって、ずいぶんストレートな時代活劇に仕上がっていたからだ。これは今回の脚本が中島かずきのものではなくて、青木豪によるものだからだろうか、それともこの舞台には古田新太橋本じゅん、女優でいえば高田聖子といったこの集団の芝居のトーンを決定ずけるようなキャストが欠けているからなのか。いろいろ理由を考えはしたのだけれど、この芝居の当日パンフに収録されたいのうえひでのりのロングインタビューに「いのうえ歌舞伎は『吉原御免状』以降、第2章になった」「それは一言で言えば人間ドラマに重きを置くこと」とあって、「いのうえ歌舞伎」の方向性が変わりつつあるというのがその理由のようだ。
 もっとも、例え笑いがあまりないとしてもミュージカルの「SHIROH」や染五郎主演の「朧の森に棲む鬼」の時には今回ほど気にはならなかったから、そのあたりに中島台本じゃないからというのが心の片隅にひっかかりとして残っている。このあたりは一度「吉原御免状」のDVDでも手に入れて再確認してみたいところだ。
 誤解を受けないためにあらかじめ断っておくけれど、私にひっかかりがあったのは新感線あるいはいのうえ歌舞伎の方向性についてであって、今回の舞台が森田剛の主演によるものだということがひっかかっているというわけではない。このストレートゆえに役者の力量が要求される舞台において、(彼の舞台は初めてみたのだが)森田は彼のキャラにあうようにキャスティングされ、脚本もそう書かれたということを多少は考慮の必要があるとしても、岡田以蔵という人物をなかなか魅力的に演じていた。テロリストというから単に冷徹な殺し屋というわけではなく、冷酷さと無邪気さが渾然一体となった子供のような存在である以蔵のピュアな部分をうまく表現していたと思う。
 森田の芝居を見たのは初めてと書いたが、「犬夜叉」の佐藤アツヒロをはじめ、いのうえ演出では「広島に原爆を落とす日」の稲垣吾郎の好演など記憶に残るものが少なくないし、むしろ評価に値する舞台成果が少なくないと思っている。今回の森田の演技が例えば「広島…」の稲垣吾郎や「蒲田行進曲」での草なぎ剛の域に達しているかといえるかと聞かれれば、「正直言ってまだそこまではちょっと」といわざるを得ないけれど、その演技は予想した以上によく「今後も舞台で活躍してくれそう」と思った。
 日本のショービジネスにおいて新感線が松竹(=歌舞伎)、東宝ホリプロジャニーズ事務所と微妙な距離感を保ちながら、取り込まれてアイデンティティーを放棄してしまうことなく、対等な立場で協力関係を続けているのは劇団のあり方として非常に興味深いと以前から思っているのである。
 キャスティングについてもしぶく脇をかためた西岡徳馬、木場勝巳らをはじめ、とてもいい。それなのになぜか物足りなさを感じるのはなぜだろう。それを考えていたところ、ようやくひとつの結論のようなものが思い浮かんだ。それは人間ドラマに主軸を置くのは全然かまわないのだが、こと「いのうえ歌舞伎」に関してはそれを歌舞伎と名乗る限りは「アテルイ」「朧の森に棲む鬼」のような想像力のよる史実からの飛翔を軸としてけれん味に溢れたものにしてほしいのだ。今回のようなリアルな活劇はあってもいいけれども、新感線の「いのうえ歌舞伎」に望んでいるのはそういうものじゃない、ということなのである。「吉原御免状」はさておくとしても、歌舞伎の様式をそのまま映したものではなくても「けれん」「見立て」「戯作(パロディ)」といった歌舞伎が伝統的に大事にしてきた精神を現代に蘇らせたものとして、中島・いのうえコンビによるいのうえ歌舞伎は成立してきたし、だからこそ「いのうえ歌舞伎」と呼ぶに相応しかったのである。
 もちろん、歌舞伎には時代ものだけではなくて、世話物というジャンルもあるし、青木豪はそういう傾向のものを書けばよりその能力を発揮できそうな気はする。だが、今回の脚本は職人的な技芸は十分に発揮されてうまくは書かれているけれど、史実のどこにメスを入れて、舞台として仕立てあげるものとするかということでまず物足りない。幕末の時代や主人公の岡田以蔵をはじめそれぞれの登場人物の造形にどこか既視感を感じることは否めなかったし、本人が幕末という時代にそれほど関心がなかったと語っているようにやはりいまひとつ深彫りがされていなくて、歴史や人物の解釈がどことなくステレオタイプなのだ。新感線的キャラ立ちの少なさなどはそれも物足りなさの一因ではあるけれど、やはり問題はやはり脚本にあり、そしてそれは実際に脚本を書いた青木だけでなく、彼を選定し方向性を決定したいのうえにもそれ以上にあるのではないかと思ってしまった。