A級MissingLink「ショーン・レノン対地底人」@ウイングフィールド

A級MissingLink*1ショーン・レノン対地底人」(ウイングフィールド)を観劇。

A級MissingLink 『ショーン・レノン対地底人』
 
【作・演出】
土橋淳志


【キャスト】
横田江美 アリス/姉/伊藤
松原一純 帽子屋/和多田/木島
幸野影狼 藤川/小松
細見聡秀 千葉/軍曹
内藤隆司 白兎/稲場
アサダタイキ(The Stone Age) チャールズ/服部/丸山
青空まるこ 倉田/富山/職員
森田有香 ナムジー/麻美/姉B/女優
柳本宣広(しかばんび) 松浦/安岡/竜二

A級MissingLinkの舞台を見るのは2006年4月の「決定的な失策に補償などありはしない」(ウイングフィールド)に続いて2回目である。前に見た「決定的な失策に……」は入れ子状に劇中劇を挿入した典型的なメタシアターだったが、今回も集団自殺をモチーフにした映画を撮っている人たちがいて、その映画の物語と映画を作ろうとしている人たちの物語が同時進行していく、メタシアター構造を持つ。土橋淳志の作品を見るのはこれがまだ2本目だから、偶然そうだったという可能性は否定はできない。けれど、やはりこの作家は何を語るかだけでなく、いかに語るかについて強いこだわりがあり、こういうメタシアターの形式が好きなんだろうということはこれまで見た作品からもはっきりと分かった。
 ただ、2作品を比較してみると騙し絵的な構造が利いていた前作に比較して今回は予定調和的に収まるところに収まってしまった感がした。「ショーン・レノン対地底人」という荒唐無稽な表題やチラシのイメージからちょっとバカバカしい破天荒な形式破壊を期待していたこともあってやや肩透かしだ。
 この期待には私の方の勝手な思い込みや誤解もあったようだ。チラシからまず連想したのは映画「プレスリーVSミイラ男」であった(笑い)。次に連想したはやはり映画の「アメリカVSジョン・レノン」だったのだけれど、パンフの作者の言葉によれば高橋源一郎の「ジョン・レノン対火星人」に憧れてつけた表題だったようだ。現代小説が好きでよく読んでいてそういうところからモチーフのヒントを得ているのかもしれない。というのは表題に引用(?)した高橋源一郎だけではなく、妻に離婚され、娘の親権も取り上げられているロリコン教師などは阿部和重の「グランド・フィナーレ」が元ネタだろうっていうのがあまりにもみえみえで「ちょっとまずいんじゃないの」と思ってしまったりもしたのだが、それでも「いかに語るか」に重心を置いたその表現姿勢には共感を覚えるからだ。
 物語の主題(モチーフ)が自殺サイトによる集団自殺であったり、前作に続き自殺未遂を繰り返す自傷癖のある少女が出てきたりというのはどうなのか。センチメントにすぎるんじゃないかとも思った。こういう言葉は悪いけれど手垢のついたよくある話を観客にとってリアルに感じさせるためにはいかに語るかについては周到な戦略が不可欠なのだけれど、それにしては今回の仕掛けはあまりにも単純にすぎたのではないだろうか。さらに不思議の国のアリスからの引用、メタシアター的な趣向は80年代の小劇場演劇で嫌というほど見せられてきたため、どうしても今回の舞台はその焼き直しのように感じてしまう。それは「決定的な失策に……」のような形式に対する徹底的なこだわりを見せた劇作家の作品としてはあまりにナイーブに感じてしまったからだ。
 集団自殺をする人たちを描く映画を撮ることで、彼らがその話を撮ることのひとつの原因となっている過去に自殺した男のことが忘れられなくて、後追い自殺を図る少女を救う。この舞台は私の目にはそういう「ほろりとさせるちょっといい話」に見えてしまい、それでせっかくパンフで「ジョン・レノン対火星人」を引いているのにそれはないだろうと思ってしまった。
 ただ、若干の引っかかりもなくはない。ひょっとするとなにか大きな見落としがあったのではないかと思ってもう一度考えている。作者はパンフには「今回の作品との関連は、共通点といえば『ジョン・レノン対火星人』にジョンや火星人が出てこないように、『ショーン・レノン対地底人』」にもショーンや地底人が出てこないことくらいか」と高橋源一郎作品との共通点を否定しようとしている。が、本当にそうなのか。念のためにと「ジョン・レノン対火星人」をもう一度読み直していると、この小説の小説内小説のなかに確かに「不思議の国のアリス」を下敷きにしたものがあり、作者の言葉にもかかわらず小説と舞台はまったく無関係というわけではない。そこにはなんらかの関係性が存在しているとの疑いが否定できない。
 もうひとつ。「地底人ってなんなんだ」。「ショーン・レノンってなんなんだ」。作中でチャールズ・ドジソン(=ルイス・キャロル)の書いた「不思議の国のアリス」について登場人物のひとりが「元はAlice's Adventures in Under Ground(地底の国のアリスの冒険)という表題だった」ということを語っていて、「地底人」というイメージはそこから出てきたのではないかとも思われ、この劇中にも集団自殺を皆が試みる場所として、昔防空壕としても使われた地下室というのも出てくる。だけど、無茶を承知であえていうならば、地底人というのはアンダーグラウンド(Under Ground)にすむ人だから「アングラ演劇」のことじゃないんだろうか。ではショーン・レノンってなんなんだ。もちろん、副題に「偉大な父を持つ男の孤独な闘い」とあるぐらいだから、偉大な父の息子。父ジョンを尊敬し憧れるけれどもなれない男の孤独な闘いってことだろう。
 そうなると、ここではショーン・レノンの存在を作者の土橋は自分となぞらえ、重ね合わせているのじゃないか。そうだとすると表題をパラフレーズしていくと「ショーン・レノン対地底人」→「土橋淳志対アングラ演劇(人)」と風に置き換えることができる。そうかそういうことかもしれない。冒頭で予定調和と書いたことには当然批判的なニュアンスがあったことは否定しないが、そういう風に見えること自体は失敗ではなく、破天荒な形式破壊(=アングラ演劇)に対する土橋自身の「孤独な闘い」なのかもしれないと思われてきた。
 この作者の劇作へのアプローチには苛立たしいまでにストイックなところがある。それは作者の美学に対するこだわりの強さといってもいいのだけれど、その脚本は筆の走りなどといった要素によって決して作者の意図しない方向には勝手にははみださない。そこには愚直なまでに劇世界を緻密に過不足なく緻密の構築したいという冷徹な意思のようなものが感じられる。それはことすると作品のなかに遊びのなさや真面目さということを強く感じさせる結果となり、個人的な好みとしてはどうしてもこれが前田司郎のようにもう少しいい意味でのいい加減さがあればとかついつい思ってしまうのだけれど、これは土橋に対してはないものねだり、フェアではない期待だろう。
 今回の舞台は成功しているとは思えないのが残念ではあるのだけれど、関西の劇団としては珍しく「なにを語るかより、いかに語るか」を重視するその方向性は今後も引き続き注視して、そこからなにが飛び出すかを気にかけるべき存在であろう。