大橋可也&ダンサーズ「明晰の鎖 ダウンワードスパイラル」@アトリエ劇研

大橋可也&ダンサーズ「明晰の鎖 ダウンワードスパイラル」(アトリエ劇研)を観劇。

出演/江夏令奈、古舘奈津子、宮尾安紀乃、多田汐里
振付:大橋可也
音楽:舩橋陽
衣装:ROCCA WORKS
照明:遠藤清敏(ライトシップ)
舞台監督:原口佳子(office モリブデン
宣伝美術:佐藤寛之
映像版制作:古屋和臣
制作:三五さやか、ビーグル・インク株式会社
助成:芸術文化振興基金、財団法人セゾン文化財
共催:(財)福岡市文化芸術振興財団
主催:大橋可也&ダンサーズ



 youtubeで映像を見つけたので貼り付けてみた。ただ、この映像は吉祥寺シアターで上演された際のもので最初の映像で映っている部分は今回のツアーの公演ではなく、4人の女性ダンサーが登場する部分だけが、「明晰の鎖 ダウンワードスパイラル」として上演された。大橋可也の作品を過去に見たのはミウミウとのデュオでトヨタアワードにもノミネートされた「あなたがここにいてほしい」と東野祥子に振付けた作品ぐらいでしかなく、しかも東野の作品は彼女が故障していてまだ治りきっていない時点でのものだったために十全な形での上演ではないと思われ、そういう意味では(ここで横浜ソロ&デュオのグループ部門でも作品を見たのを思い出したがとりあえず置いておく)これがきちんとした形での大橋可也の作品を見た最初の機会となった。
 実はこの人の作品については「あなたがここにいてほしい」などを見ていて、アイデアとしては面白いとは思ったのだが、ミウミウの痙攣するような動きが次第にその動きの強度を増してきて、それにスカンクの音楽がやはりクレッシェンドして強度を増していく。この呼応関係だけのワントーンだけで作品にしてしまったというのは凄いとは思ったのではあるが、一方でキネティックボキャブラリの数が今後その世界観をいろんな形で展開していくには少なすぎるのではないかとも思い、一部の東京の批評家らが彼のことを高く評価することについて正直言ってひいきの引き倒しじゃないかといぶかしく思っていたのだ。
 ところが今回の作品を見て私の評価はがらりと変えざるを得ないと思った。そのぐらいこの作品には見所があったのだが、私が興味深く思ったのは、「あなたがここにいてほしい」を見て、私がこの先には展開がないだろうと思った、その先が複数のダンサーをうまく使いこなすことで成立していたことで、しかもその作品において動きのバラエティーが以前より増えているかというとそうではない。それでいて、普通だったら非常に退屈なものになっても仕方がないようなものなのにそれがきちんと作品として成立していたということに感心させられたのだ。
 「退屈なものになっても仕方がないようなものなのに」と書いたが実はこの作品は最初の何分かは本当に退屈なのである。というのは舞台上には一応、4人のダンサーはいるにはいるのだけれど、彼女らは目立ったことといえば突然「死ねばいいのに」などと呟く瞬間はあるのだけれど、それ以外はほとんど歩いていって舞台をただ通り過ぎるだけとか、ほとんどなにもしない。さらにいえば最初は舞台と楽屋をつなぐ扉とか、会場の入り口の扉を開け放たれていて、これで観客が客席にちゃんと座ってなにもしていないダンサーを凝視しているというようなことでもなければ本当に今が公演の本番なのかどうかということさえ、怪しくなってくるところだ。
 作品の要素としてはミニマルな素材の組み合わせに徹している。ダンサーというかパフォーマーは既存の舞踊の技術のようなものを見せるということはいっさいなく、ほとんどの場面で舞台上を走るとか、ただ立ち尽くす、倒れる、起き上がる、そしてそれを何度も何度も繰り返される。それははじめのうちはあまりにも日常的な所作に終始しているから思わず退屈してしまいよそ事を考えてしまうということがあるのだが、個々の動きそのものではなくて、
途中からこの舞台空間全体を使って作り手が提示しようと考えているのだろうと思われる作品の構造が見えてくると次第に目の前のものが面白く思われてくる。
 それは端的にいうとこの作品が世界のメタファー(隠喩)として見えてくるということなのだが、中盤ぐらいで上手側に開かれていた通路がいつの間にか閉じられて、今度は逆に天井に据え付けられたの蛍光灯の照明が一つずつともされ、それに合わせて舩橋陽の音楽が次第に大きくなってきて、場を支配するようになると舞台の閉塞感がより一層増してくる。時間が進行するにつれて、同じミニマルな動きでありながら、パフォーマーの動きも強度を増してきて、劇場内を閉じられてどこにも出口がない世界という空気感のようなものが漂いはじめる。
 そしてこの舞台がいいと思われたのは、その空気感が見事に現代の世界そのものの閉塞感と呼応しているように感じられ、これはまさに「いま・ここで」の表現であると感じられたことだ。もうひとつ興味深いのはここに出演しているパフォーマーの身体性である。前にこの舞台は「既存の舞踊の技術のようなものを見せるということはいっさいない」と書いたが、少し見ていると技術は見せなくても、ただ倒れたりする動きを繰り返して見せたりするだけで、いずれのパフォーマーも鍛えられた身体の持ち主であり、おそらく踊ろうと思えば踊れる技術も持っているのであろうということは強く感じさせる。
 つまり、これは形だけを真似して動きに対して素人同然である人を舞台に上げてもまったく成立しないような表現なのだ。それは例えば後半のように鋭く動くところだけでなく、前半のただ立っているようなところでも歴然と感じられるということがある。日本の舞踏が追求してきたマチエに舞台上で動かないでただ立ち尽くす時の身体のあり方などということがあるけれど、大橋自身は舞踏出身と位置づけられることをどうも好まないけれど、ここにはある種のコンテンポラリーダンスが舞踏から受け継いだ問題群が確実に存在していると思う。
http://reviewhouseradio.seesaa.net/article/90795751.html