ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス 「Amjad」@さいたま芸術劇場

ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス 「Amjad」(さいたま芸術劇場)を観る。

作・振付:エドゥアール・ロック
音楽: ギャヴィン・ブライヤーズ、デヴィッド・ラング、ブレイク・ハルグリーヴズ
出演:ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス ダンサー9人 ミュージシャン4人

 初めて映像作品である「ベラスケスの小さな美術館」(1994)を見た時にはエドゥアール・ロックのスピード感とロックスピリットに溢れた振付とルイーズ・ルカヴィリエの抜群の存在感になんてカッコイイんだろうとしびれまくり、強い衝撃を受けた。それがこの舞台ではいつの間にこんな風になってしまったんだろうと思わずため息が出た。ルイーズがいないからだといってしまえばそれだけのことなんだが……。これじゃ、ハイスピードでバレエを展開するというただのアクロバットじゃないかと思う。というか、その動きはバレエそのものとうよりはバレエをビデオに撮って、それを倍速、三倍速で早回ししたような動き。確かに最初見てすぐに「これはなかなか」と思わなくもないのだが、動きのバラエティーがあまりに少ない。
 そのためだろうか、なにか生身の人間が動いているというよりはCGやアニメーションを見ているような感覚に襲われてきて、生っぽさが薄い。なぜかダイナミックというよりはコマネズミのようにちまちまと動いているという印象が強く、初期の作品にあったような官能性やダイナミズムのようなものがこの舞台からは感じられないのはなぜなんだろう。あるいは同じように眼で直接は追えず、残像だけが残るようなハイスピードでの動きという共通点がありながら、なぜこの舞台のダンサーの動きにはフォーサイスの舞台から感じられる目の快楽というものが感じられないのだろう。公演の最中ずっとそうした疑問が脳裏から離れなかったのである。
 結論から言えば単位時間あたりの動きの量的な密度は確かにあるのだけれど、繰り返し、反復が多くて、結局情報量としてはそれほどないんじゃないかということ、それからこの人の動きには緩急というものがないということ、さらにレンブラント効果を狙ったのだろうか、確かに短期間には劇的に見えなくもない暗闇にダンサーの身体が浮かび上がる照明だが、これも同じ状態の照明が1時間以上続くことで、しだいに目が疲れてきてしまい、微細な動きの違いがあったとしてもそれを目が追わなくなってしまうこと。ここでは動きのことを書いたけれど、「白鳥の湖」「眠れる森の美女」を基にした音楽にもいえることで、こうした要素の相乗効果が見る側に生理としての睡魔を呼び起こすのだ。せっかく高いチケット代を払って見ているのだから、そういうわけにはいかないと頑張ったのだが、それでも何度か意識が朦朧としかけた瞬間があったのも確かだったのである。ちょっと「未来のバレエ」を連想させるようなところがあったり、すごいスピードでクルクルっとまわってから急に静止するような動きがカクカクのコマ落とし映像のように見えたりするバカバカしさもあって、いっそ確信犯としてそうしたバカバカしさを狙ってやっていればそれはそれで面白いかもしれないと思うのだけれど、ロックの狙いがそうだという風にも思えないので、そこのところが中途半端になってしまった気がする。
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