柿喰う客「恋人としては無理」@精華小劇場

柿喰う客「恋人としては無理」(精華小劇場)を観劇。

脚本・演出 中屋敷法仁

2008年、フランスにて初演。
民衆から救世主と呼ばれている浮浪者と、彼に従い旅を続けるバックパッカーたちの物語。
「記号」に裏付けされた独特の演技法と、スピーディかつスタイリッシュな空間演出で、人間存在の不確かさを鮮やかに風刺する。2008年3月、ブザンソン(フランス)で行われた『フランシュ=コンテ国際学生演劇祭』で初演。4月に東京で凱旋公演を行い「CoRich舞台芸術まつり!2008春」最終審査に残る。

出演者 七味まゆ味、コロ、高木エルム、中屋敷法仁、玉置玲央、深谷由梨香、村上誠基と日替わりゲスト(この回はsundayの赤星マサノリ)

スタッフ
照明:富山貴之
宣伝写真:内堀義之
宣伝美術:山下浩
制作:赤羽ひろみ/飯田裕幸
OTHER MEMBER:本郷剛史
製作:柿喰う客

 イエスとそれに従う十二使徒の物語を下敷きにした演劇だが、普通にそれが演じられるのではなく、奇を衒ったかとも思われる演出・演技法によって展開されていく。この劇団がどういうスタイルの劇団かはほとんど知らないで見たため、最初は「これはいったいどういうことなのか」と思ったのだけれど、しばらく見ていて思ったのは「これは惑星ピスタチオがやっていたスイッチプレイじゃないか」ということだ。厳密にいえばもちろん違うのだけれど、いろんな人が次々と同じ人物を演じていったり、ひとりの人が別の人物を演じていったりというスタイルは似ていることは確かだ。
 演技はどうやら単純なルールに基づいて行われていく。イエス(作中ではイエスくんと呼ばれる)とそれに従う十二人の弟子たちを巡る物語だが、弟子たちはもちろんのこと、ピラトやエルサレムの住人たちといった周囲の人物までをすべて5人の役者で演じるために、それぞれの人物はそれぞれ帽子、傘、本、酒瓶といった持ち物を属性として持っていて、それを持っている人がその人物だというルールに従って演技が行われる。
 つまり、例えばペテロ(ぺてろ)は「上着を肩から覆っている女」、ヤコブ(やっこさん)は「扇子を振り回す男」、ヨハネ(よはねっち、ぺてろの妹)は「ぬいぐるみを抱く女」、アンデレ(あんちゃん)は「書物を持つ男」、バルトロマイ(ばるぞー)は「新聞紙を振る男」、フィリポ(ふぃりぽ)は「酒を飲む女」、マタイ(まーくん)は「カバンを離さない男」、小ヤコブ(こぶさん)は「何かを被った男」、タダイ(たださん)は「帽子を被った女」、シモン(もんちゃん)は「傘を操る女」、トマス(とまちゃん)は「布に隠れる男」、ユダ(ゆだりん)が「ヘッドホンを装備した女」という風にそれぞれに見た目に分かりやすい特徴を持たせている。言いかえればそれを演じているのがだれだろうが「ヘッドホン」をつけておればそれはユダ、「上着」を覆っていればペテロ、「傘」ならシモン……といった風で「上着」なら「上着」、「ヘッドホン」なら「ヘッドホン」というモノが役者から役者へ手渡しで移動していくとそれに従って、「役」も次々と移動していくし、今度は特定の役者の方に視点を移して見ればひとりの役者がいろんなモノを手渡されることで、あるときは「ペテロ」ある時は「ユダ」といろんな人物を次から次へと演じることになるのだ。
 こういう風に文章で書くとなにかすごく複雑なことをやっている難解な芝居かのように感じるかもしれないが、実際に舞台を見ていると複数の人物が演じても最初はややとまどうけれど、次第に自動翻訳機能のように役者の演技の向こうに、十二使徒をはじめとするそれぞれの人物像が立体的に浮かび上がってくるのが演劇の不思議である。
 ただ、こういう類のものとしては偶然にもこの日のアフタートークゲストでもあった末満健一が作演出したTAKE IT EASY!「千年女優」を見ているので、スイッチプレイ的な演技・演出の様式的の安定度を比較するならば、そちらの方に軍配が上がるかもしれない。ただ、この日初めて見た柿喰う客には荒削りなところに若さの勢いを感じさせた。そういう意味では決してうまいとはいえないけれど、その荒削りに逆に無限の可能性を感じさせたブレークする直前の惑星ピスタチオに実際の演劇のスタイルではなく、舞台から匂ってくる匂いのようなものおいて逆に近い感覚を感じたのも確かなのである。
 この劇団の演技のもうひとつの特徴はある時はラップのような調子、別の時はそれとは全然違うがやはり早口言葉のようなリズムでとスピード感溢れるセリフ回しをすることだ。しかもそれを時には激しく動き回りながらするので、それはおそらく俳優にとっては相当な負荷の高さあり、それをかなしているのはなかなかに凄いことだと思う。
 もっとも、この日のスタイルというのはいつもそうだというものではなく、この「恋人としては無理」という作品だけのものではないかと思い、終演後確かめるとその想像はどうやら当たっていたようで、この舞台のスタイルにどうも完成度においてしっくりこないものを感じたのはそのせいもあるのかもしれない。いずれにせよ、どの部分がこの劇団の方法論において本質的なもので、どの部分がからなずそうじゃないかということは他の芝居も何本か見てみないと分からないと思われ、その意味で次の観劇の機会もぜひ持ちたいと思った。