珍しいキノコ舞踊団レビュー

 セミネールの珍しいキノコ舞踊団の準備の意味も含めて、旧サイトの「下北沢通信」時代に収録されていたダンスレビューのうち、珍しいキノコ舞踊団にかかわるものを再掲載してみることにした。興味のある人はぜひ読んでみてください。
珍しいキノコ舞踊団「私たちの家」
 ポップでありながら、現代ダンスの様々な方法論に対して明確に意識的で、遊び感覚の楽しさも感じさせてくれるのが珍しいキノコ舞踊団の舞台。少女特有の仕草性を重視した従来のコンセプトから、より端正で、フォーマルな方向に向かい大きく変わりつつある感じがここ何作かの舞台では感じられたが、今回の新作「私たちの家」は「少女」「夢」「遊び」といったキノコ特有のコンセプトを凝縮した形に戻った感じ。ただ、ダンスそのものの振付は単に仕草性を重視さたものから、もう少し構成的なものとなっており、近作の流れを受け継いでいる。

 全体としてはダンス作品というより、セサミストリートのような良質の子供番組を思わせる雰囲気。その中に自然にダンスの振付が溶け込んでしまっているのがキノコならではの構成といえそう。

 舞台美術(久保英夫、天明幸子)がいかにも女の子らしい雰囲気の部屋をデザインしたもので、それだけでくつろいだインティメートな空気を醸し出している。そこで、パフォーマーは必ずしも全員がダンス的な動きをするのではなく、最初、きわめて、日常的にごろごろと休んでいるような状態から、一人がダンス的に動きはじめるとそれにつられて、もうひとりがシンクロして踊りはじめる、それが一組になったり、二組、三組に増えたり、また減ったり(日常的な動きに戻る)するという構成。ダンス自体はそれほど激しく動くことはなく、ミニマルな動きを組みあわせて、そこにアクセントとして、遊びの要素(例えば、相手のおシリや背中をそれぞれがさわりあう動作を繰り返すなど)を取り入れている。ただ、この作品での特長はダンスをやめた時に、そのダンサーが舞台からはけないで残ったまま、日常的な動作に入ること。これは、抽象的な空間ではフォーサイスなんかもやってるけど、舞台が普通の部屋のようになっているだけに、単に踊りをやめているダンサー以上に日常性を感じさせるものとなっているのが面白い。

  こうして舞台上に様々な状態のダンサーを共存させることで、いかにもダンスですよというような文脈を外そうという狙いで、これは一応、成功してると思う。特に前半、ダンサーが舞台奥のステレオの曲をかけ換えるという設定で、次々と曲想の違う曲が流れるとそれにつれて、振付も雰囲気を変えていくところなど、ミニマルな振付ゆえに単調になりがちな構成にうまく目先の変化をつけて、飽きさせず引っ張っていく、一連の流れは素晴らしい。アマカシノカの音楽をはじめ、着ぐるみのくまや舞台奥の窓に登場する人形など、全体に「女の子らしさ」を過剰なまでに強調している。ただ、この「女の子らしさ」は一時期キノコが取り入れていたような、少女から女に変わる途上の少女の仕草に無意識の媚のようなものとは微妙に違ってきている。内部で自閉しているような意識的に無垢な空間だからである。これは振付家の3人と少女との距離感が以前と今とでは違ってきているせいかもしれない。

 後半の生ギターとのセッションのような部分には違和感がある。ギターの生演奏に合わせて踊るというのはランドマークホールの時にもやっていたから、ここで統一された世界をわざと壊すという意図はなかったと思われる。だが、実際にはこれが全体のトーンの中では不協和音となっていた感じは否めない。キノコの振付はあまり緩急がなく、こうした激しい音楽に乗せた時にグルーブ感を生まないからである。この不協和を意図的に作品に生かしたものなら、かまわないのだが、今回は残念ながら、このあたりが中途半端に感じられた。楽しい舞台で、最近のキノコの舞台の中では出色の出来であることは間違いないが、今度は「夢」の中で安住するだけでないものも見てみたいとの気持ちを抱いたことも確かなのである。(3月16日、4時ラフォーレミュージアム原宿)
珍しいキノコ舞踊団 「牛乳が、飲みたい。」 文責中西理
 「今度は『夢』の中に安住するだけでないものを見たい」――。前回のキノコの公演「私たちの家」のレビューをこう結んだ。それは作品自体はダンスとして面白かったものの、インティメートな少女たちだけの空間(私たちの家)に徹底的にこだわった舞台に外部に対し、開かれていない自閉的な匂いをかいだからである。それゆえ、前回、少女性という自分らの砦に立てこもった彼女らが、今度の新作ではどのような姿を見せるのか。そこに固執し続けるのか、それとも外界に向けて泳ぎだすのかというのがこの舞台を見るにあたって注目したところであった。

 ところが、実際の舞台を見て当惑をいまだに隠せないでいる。「牛乳が、飲みたい。」は大きな牛乳瓶のかぶりものをした山下三味子が登場するなど、遊びっぽい冒頭でキノコらしい遊び心を演出しようとはしているものの、舞台は作りこんだ「私たちの家」とは対照的にがらんとした素舞台に近いステージの左右に数対の椅子だけが配置された抽象的な空間である。衣装も靴下の色や形を一人づつ変えてバラエティーをだしてはいるものの、少女性へのこだわりを捨てて、普遍的なムーブメントに還元されるような方向に歩みだしているように見えた。それはそれで、前回公演で感じたある種の閉じた空間からの脱出のようであり、歓迎すべきことではあったのだが、大きな問題も抱えていたのだ。つまらないのである。ダンスの動きそのものが……。

 もちろん、動きそのものが完全に抽象化されたものになっているわけではなく、アクセントとして入ってくる仕草性の強い動きなどの部分でキノコらしさというものは残してはいるが、全体としてはオリジナリティーに欠ける印象なのだ。ラテンの音楽に合わせてダンサーらが前を向いてステップを踏むところなどは、アビニョンで見たダニエル・ラリューの舞台に似ている。もちろん、ムーブメントをそのまま写したわけではないので模倣というのは語弊があるのだが、ラテンの音楽がクラシック系の歌曲と重なり合いながら曲調を変えていく構成などにも影響が強くみられる気がした。しかし、ラリューの舞台ではこうした曲調の変化がダンサーのムーブメントの変化とシンクロして、構成にメリハリが感じられたのだが、ここでは女性ダンサーだけだというのが不利に働いているのかもしれないが、アクセントがもうひとつつかずに平板になってしまっている。

 また、これは意図的なものであろうが、これまでキノコのダンスでは個々のダンサーの動きそのものよりもユニゾンや対位法といった群れの動きを縦横無尽に組みあわせていくことで生まれるダイナミズムがある種のリズムを生んでいた。ところが、今回の舞台では七人のダンサーがバラバラの動きをすることが多く、そうするとどうしても見る側として個別のダンサーひとりひとりの動きを目で追うことになる。ところが、そうなるとキノコの振付ではアクセントとしての仕草性はあっても、基本的にはムーブメントそのものはそれほど複雑というわけではなくミニマルで、モダンダンスのように自己表出的な動きが前面にでてくることも超絶技巧的なテクニックを見せるわけでもないので、ダンサーとしてのみせどころが少なく、ともすると退屈してしまうのである。

 これだけなら、ただ退屈した。今回は凡作だったと切り捨ててしまうことも可能なのだが、困惑したと書いたのは理由がある。前半の一連のやや抽象的なダンスが終わり、インターバルをはさんで後半に入るとあれほど退屈だった舞台ががぜん生気を取り戻したからである。バケツを持って、舞台に水をやるところからはじまり、舞台後方には天井から吊られることで、左右一対の大きな弦に花をつけた植物をあしらった美術が表れる。ここで、舞台の雰囲気もメルヘンチックに変わり、一転して、曲もダンスもコミカルな要素を持ったものに変化して、ダンサーらも楽しく踊ってるのが客席にも共有されるような楽しい雰囲気が醸し出されてくる。こういう風に「ダンスについてのダンス」という前衛的なコンセプトなのにもかかわらず、親しみやすいムードが生まれるのが珍しいキノコ舞踊団の本来の魅力なのである。

 しかし、こういうことが起こったのが普遍性を感じさせる前半ではなく、どちらかといえばこれまでのようにメルヘン=少女性と結びついた後半だということは果たして偶然なのか、それともある程度の必然的な関係性があるのか。この舞台を見ただけではそのことについての結論ははっきりとは分からなかった。

 「ダンスについてのダンス」というコンセプトが本来持っているはずのより広い射程を少女性などのキノコのほかのコンセプトと切り離して、より広いフィールドに飛びだすべきなのか。それとも少女的なるものは本質的にキノコのダンスの生命線なのか。そのことについて再び考えさせられた舞台であった。

(99年1月30日 8時〜 スパイラルホール) 
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/19990130
珍しいキノコ舞踊団「あなたが『バレる』と言ったから」 文責中西理

 第1部「holiday bus pass by」 演出・振付・美術デザイン/小山洋子 音楽/大渕靖之
 イラストレーション/Abby Denson
 出演・振付協力/山下三味子、井出雅子、樋田佳美、山田郷美、佐藤昌代、飯田佳代子


 第2部「素敵について」 演出・振付・美術デザイン/伊藤千枝 音楽/アマカシノカ
 イラストレーション/中川雪子
 出演・振付協力/山下三味子、井出雅子、樋田佳美、山田郷美、佐藤昌代、飯田佳代子ほか
 照明プラン/大迫浩二 音響/金子伸也 舞台監督/野口毅 衣装/NEW WORLD SERVICE

 珍しいキノコ舞踊団日大芸術学部出身の伊藤千枝、小山洋子、山下三味子の3人が結成した女性だけのダンスカンパニーで、これまで集団創作の形式をとって、それぞれの持つ方向性などはそれほど明確には区別できなかった。今回の新作は山下がダンサー、伊藤と小山が振付と役割分担をはっきりさせた上で、伊藤と小山もこれまでのように共作という形ではなく、それぞれが単独で作品を振り付けた。いわば、ダンス振付版のソロプロジェクトといってもいいだろうか。その結果、ふたりの振付家にはそれぞれに個性があり、方向性も微妙に違うがそれぞれにキノコの色合いには違いない作風で、いつもの舞台はそういう要素が渾然一体となって出来上がっているのだということが確認でき興味深かった。

 方向性の違いをひとことで言い表せば第1部小山振付の「holiday bus pass by」は「ダンスを遊ぶ」。第2部伊藤振付の「素敵について」は「ダンスで遊ぶ」。とでもいったらいいだろうか。キノコのダンスの特色は一種の「遊び」である。それは既存のダンスに対する批評性と言い換えてもいいのだが、このいわばメタ的なアプローチが持ち味なのである。だが、そこにおいてもこのふたりのアプローチは異なっている。

 「holiday bus pass by」は5曲の音楽を使った5部構成の作品だが、キノコとしては珍しく純ダンス的な作品に仕上がっている。このカンパニーのフォーサイスを始めとするコンテンポラリーダンスへの傾倒はいまさら指摘するまでもないが、このカンパニー特有の「女の子」を強調した仕草性は残しながらも、この作品ではどちらかというとそれはダンス的なムーブメントとして咀嚼されている。背景が透けて見える薄い幕を活用して、そこに映される映像とその背後で踊られるダンスとをコラージュして見せていく手法などははっきりとフィリップ・デュクフレをはじめ最近のヨーロッパのダンスで見る手法ではあるが、映像、照明ともに完成度が高く、海外カンパニーのダンスと比較しても見劣りしない。

 この作品にも遊びはあり、フォーサイスやデュクフレ、ダニエル・ラリューの作品を思わせるような構成を巧みに引用しながらキノコ風に料理してみせる。中でも幕の演出などはアートスフィアの劇場機構を存分に使ったもので、これまで、原宿ラフォーレや青山スパイラルといったフリースペースでの公演が多かったこともあり、今回は「せっかくこういう劇場でやるのだから」と普段は出来ないアイデアを山ほど盛り込んで、遊んでみたという印象が強いのである。

 この作品には6人のダンサーが出演し、最初のシーンはデュオと3人以上のユニゾン的な群舞を組みあわせて、次々と関係をずらしていく構成ではじまる。これはキノコの舞台によくあるのだが、特徴的だったのはソロ的なシーンが設けられていて、そこで山田郷美がソリストとして踊ってみせたことだろう。小柄でコミカルな動きで目立つ樋田佳美などそれぞれの個性がクロースアップすることはこれまでもあったが、これだけソロ的な扱いで、ダンサーの踊りをたっぷり見せるというのはこれまでのキノコの舞台ではあまり見られなかったことだ。その意味でもこの作品は「踊りを見せる」というコンセプトがこれまで以上に強く感じられた。

 「holiday 〜」が純ダンス的作品だとすれば「素敵について」は純キノコ的作品とでもいったらいいだろうか。もちろん、ここでもダンスはあるのだが、まず漫画の画面を星で囲まれたスクリーンに映して見せて、その時のBGMとして、ハリウッド的な音楽を流すなどショーダンス的に始まると見せて、そこで踊られるのは仕草性の強い脱力系の振付であったり、全体としてパロディー的な色合いが強い。ここで見られるのはいわゆるダンス的なものの外に立って、ショーダンス、バレエなど既存のダンスをずらしていく手法であり、その中に「クイズ」や「一人一芸」などの直接的にはダンスと関係ない要素を挿入していくことで、「ダンス的なもの」を解体していくことに特徴がある。その意味では同じようにダンスに対するずらしの手法を取っていても、「holiday 〜」があくまでダンスの枠内にとどまっているのに対して、構成要素としてダンスを含みながらも、それはあくまで「遊ぶ」ための素材に過ぎないのである。

 だから、ワークショップの生徒を大勢舞台に登場させて、何を踊るのかと見せかけたところで、全然踊らせずにほとんど舞台美術のようにオブジェ的に扱ってみせるとか、映像を駆使して、全然凄くない隠し芸をひとり一芸的に見せていくといったこともやってのけるのである。もっとも、だからといってダンスに対する愛がないわけではなくて、この場合にも作品は「ダンスへの愛」に満ちている。それをもっとも感じさせたのが、「踊る阿呆に見る阿呆」と私が勝手に命名した場面。ラテンな音楽にあわせて軽快に踊るダンサーの中にひとりだけ醒めた感じで素のまま立っているダンサー(山田郷美)がいる。これはダンスに対する外からの視点を暗示しているようで、この作品のダンスに対するアプローチと2重重ねになったようなところがあり、象徴的なのだが誘っているような他のダンサーの動きにつられて、最後にはこのダンサーが一番激しく踊りだしてしまう。そして、その激しいダンスは他のダンサーが全て退場してしまった後もしばらく続くのである。

 キノコの特徴である「遊び」の部分を見せながら、アプローチの違いを見せたのが面白く、今後の新たな方向性を予感させる意味でも見ごたえのある舞台であった。
短縮版(雑誌「Jamci」に掲載)
 珍しいキノコ舞踊団日大芸術学部出身の伊藤千枝、小山洋子、山下三味子の3人が結成したダンスカンパニーで、これまで集団創作の形をとってきたが、今回の新作は山下がダンサーに専念、伊藤と小山もそれぞれ単独で作品を振り付けた。その結果、ふたりの振付家にそれぞれ個性の違いがあることが確認でき興味深かった。


 その違いは第1部小山振付の「holiday bus pass by」は「ダンスを遊ぶ」、第2部伊藤振付の「素敵について」は「ダンスで遊ぶ」とでもいったらいいだろうか。
 「holiday bus pass by」はキノコとしては珍しく純ダンス的な作品に仕上がった。特有の「女の子」を強調した仕草性は残しながらも、ここではそれは純ダンス的な身体言語に咀嚼されている。薄い幕を活用して、そこに映される映像とその背後で踊られるダンスとをコラージュして見せていくのはフィリップ・デュクフレなど最近のヨーロッパのダンスおなじみの手法だが、映像、照明ともに完成度が高く感心させられた。
 一方、「素敵について」はダンスを素材にしたパロディー風な色合いが強い。全体としてダンスの外に立って、「クイズ」や「一人一芸」などの直接的にはダンスと関係ない要素まで挿入していくことで、「ダンス的なもの」を解体していく。ともに既存のダンスに対するずらしの手法を取っていても「holiday 〜」があくまでダンスの枠内にとどまっているのに対し、こちらは構成要素としてのダンスはあくまで「遊ぶ」ための素材に過ぎないのだ。
 キノコの特徴である「遊び」の部分を見せながら、アプローチの違いを見せたのが面白く、今後の新たな方向性を予感させる意味でも見ごたえのある舞台であった。
「都会をダンス」@愛知芸術文化センター 
 愛知芸術文化センターが2月8日に東京から2つの若手ダンスカンパニー、珍しいキノコ舞踊団レニ・バッソを招き、「都会をダンス」と題する公演を行った。
 会場となった小ホールが開館する前の芸術劇場のホワイエ(ロビー)での開演待ちや偶然通りかかったお客さんを巻き込んでのパフォーマンスからすでに珍しいキノコ舞踊団の「ウィズユー3」ははじまっていた。この劇場のロビーは吹き抜けの大空間になっていて、上階部分は回廊状にそれぞれの廊下が取り囲み、それぞれの階をつなぐ階段やエレベーターからその吹き抜け全体が見渡せるような開放性の高い空間を構成している。キノコの5人のダンサーはまずエスカレーターから連れだって降りてきて、音楽に合わせて踊り始め、それが終わると階上へ階下へと移動していく。
 ダンスというとバレエのように観客席から隔てられた舞台上で踊られ、それを観客が着席して静かに鑑賞するのが普通だがキノコの舞台はこうした舞台/観客の壁を取り払って観客との間にいつのまにか親密(インティメート)な空間を作り上げてしまう。エレベーターの上で片足上げたままバランスを取ってみたり、拡声器を使ってチェッカーズを伊藤千枝が下手馬な調子で歌いだすとそれに合わせて残りのメンバーが踊ってみせる。突然、全員で開店している最中のショップに踊りながら入っていってしまい絵葉書やそこに並べてある商品を物色する。どこからか案内表示の看板を持ってきて、いつのまにかそれと一緒に踊ってしまう。劇場に移動してからもそれは同じで、美術や小道具を提供しているアーティスト「生意気」との関係はコラボレーションというよりも、限りなく楽しく遊べそうな遊び道具を与えられた子供に近い。キノコを見てくる時の観客は皆一様に楽しそうで、「頑張れ」って応援している感じ。これって何かに似ていると思って考えたら、我が子が参加している時の学芸会や運動会の両親の雰囲気なのである。
 一方、レニ・バッソの特徴は圧倒的な「カッコよさ」にある。観客を突き放したような「クールでスタイリッシュ」な感覚がレニ・バッソ北村明子の持ち味。最近の彼女の作品ではディスコミュニケーション/コミュニケーションという人間相互の関係性がモチーフとなっているが、その代表がこの日上演された「Finks」で、6人のダンサーはハイスピードでハードエッジな動きで、互いの領域を一方が侵犯していくと、もう片方はそれを回避し、相互に限りなく接近しながら決して触れあうことのない現代日本の都市生活者の関係性を抽象化したようなダンスを繰り返す。
 その激しいムーブメントはストリートダンスや卓越した武道家同士の立合いを連想させるようなもので、スリリングなそれでいて洗練されたせめぎあいを舞台上に現出していく。なかでも最後に少しだけ登場する北村のソロは爆発的であり、もう少し見ていたいと思っているところで終わってしまうのが惜しまれるほどだ。
 彼女の作品ではビデオプロジェクターを駆使した無機的なメッセージや記号を含んだ照明(関口祐二)、テクノ、ノイズなど様々な音楽をサンプリングした強度を持つ音響(江村桂吾)、CGによるコンセプチャルな映像(兼子明彦)がそれぞれに舞台上で強い自己主張をしあい、そのせめぎあいがコンテンポラリーダンスの最先端といえる「カッコよさ」を醸し出していく。こうした様々な要素が唸りとなって舞台上に巻き起こしていく圧倒的なドライブ感はまさにここならではの魅力であった。
 表現の方向性は180度も異なるがこの2つのカンパニーの共通点はパリでもニューヨークでもなく「今の東京」が生みだしたそれを象徴するような表現であること。90年代の東京のダンスの特色はその多様性にあり、今回はそれを対照的な2つのカンパニーを並べる形で俯瞰してみせたという意味で実に新鮮なプログラムだった。
(演劇コラムニスト 中西理)
珍しいキノコ舞踊団「The Rainy Table」@山口情報文化センター
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20090301 
「都市のダンス」感じる2集団 珍しいキノコ舞踊団レニ・バッソ 愛知県芸術文化センターhttp://www.aac.pref.aichi.jp/aac/aac34/aac34-2-3.html
珍しいキノコ舞踊団×ジャスティン・カレオ「3mmくらいズレてる部屋」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061122
珍しいキノコ舞踊団「また、家まで歩いてく。」(http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060325
珍しいキノコ舞踊団「Flower Picking」@愛知・長久手文化の家http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20041003
珍しいキノコ舞踊団「Flower Picking」@CLASKA http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040314
2004年ダンスベストアクト2位珍しいキノコ舞踊団「Flower Picking」(CLASKAhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050119

珍しいキノコ舞踊団「Flower Picking」はCLASKAというホテル、カフェ、ギャラリーの複合空間をうまく使って、ダンサーと一緒に観客も移動していく作品。フリル(ミニ)」以来取り組んでいる「場所を遊ぶダンス」の真骨頂を見せた。ダンス版の遊園地(テーマパーク)のような作品でとにかく理屈抜きに見ていて楽しい。この作品は実はびわ湖での初演を2003年のベストアクト(2位)に選んでいるのだが、場所に合わせて大きく変化する作品でもあり、それで今年の東京での公演も同じ2位に選んだ。

2005年ダンスベストアクト5位珍しいキノコ舞踊団「家まで歩いてく。」(さいたま芸術劇場)http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060118
2006年ダンスベストアクト珍しいキノコ舞踊団「また家まで歩いてく。」(スパイラルホール)http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000106