吾妻橋ダンスクロッシング@浅草・アサヒアートスクエア

吾妻橋ダンスクロッシング2009」
2009年9月11日〜13日@アサヒアートスクエア

[Side A]

ハイテク・ボクデス 『無機LAND』
構成・演出:小浜正寛
構成・技術協力:秋山想/松本英明/山本圭祐/小林ともえ/業務用菩薩/ニセ生物/上村聡

contact Gonzo 『(non title)』
出演:加藤至/三ヶ尻敬悟/塚原悠也/キャナイ

チェルフィッチュ 『ホットペッパー
振付:岡田利規
出演:伊東沙保/武田力/横尾文恵

ほうほう堂 『あ、犬』
振付・出演:新鋪美佳/福留麻里

快快(faifai) 『ジャークチキン〜それはジャマイカの食べ物』
出演:天野史朗/佐々木文美/大道寺梨乃/加藤和也/野上絹代/藤谷秀子/山崎皓司

篠田千明 『Guten Tag,AZUMABASHI!!!』 (ベルリンから映像参加)
出演:篠田千明/磯島未来(ピンク)/ベルリンの人々

[Side B]

鉄割アルバトロスケット
『馬鹿舞伎』『園まなぶ』『どやらっぷ』『焼き鳥の串』『おれの母ちゃん何処行った?』
作:戊井昭人
演出:牛嶋みさを
出演:内倉憲二/奥村勲/中島朋人/村上陽一/中島教汁/伊藤麻美子

Line 京急(山縣太一+大谷能生)『吉行和子(ダブバージョン)』
作・演出・振付・出演:山縣太一/大谷能生/村松翔子
音楽:大谷能生
作詞:山縣太一/村松翔子

いとうせいこう feat. 康本雅子 『VOICES』
ポエトリー・リーディング:いとうせいこう
ダンス:康本雅子
音楽:Dub Master X
ギター:森雅樹(EGO-WRAPPIN') ※9/12のみ

飴屋法水 『顔に味噌』
作・演出:飴屋法水
出演:秋葉賢人/安ハンセム/石川夕子/小駒豪/大井けんじ/上村梓/キムウンジん/クジェ・クルク/香本正樹/桜木彩佳/武田力/立川貴一/マチナ・シモーネ/丸瀬顕太郎/村田麗薫/藤原みかん/モンジュ/エピー/よだ/高内絵里

[インスタレーション] Chim↑Pom



キュレーション:桜井圭介

照明:森規幸
照明操作:小沢葉月
音響:牛川紀政
音響アシスタント:林あきの
舞台監督:原口佳子(office モリブデン)
演出部:北村泰助
フライヤー・イラスト:泉太郎


フライヤー・デザイン:岡本健
写真撮影:聡明堂
映像撮影:西村秋也/富田了平
制作:プリコグ(中村茜/奥野将徳/山崎奈玲子/黄木多美子/中島友紀子)
制作スタッフ:保坂豪一/影山英理子/森翔太/古原彩乃/白川のぞみ/櫻井英子/戸田史子/吉岡理恵/安藤真理/南波圭/関寛之/聞谷洋子

主催:吾妻橋ダンスクロッシング実行委員会
助成:アサヒビール芸術文化財団/東京都/セゾン文化財
協賛:アサヒビール株式会社
協力:舞台美術研究工房六尺堂

 「吾妻橋ダンスクロッシング鼎談・岡田利規×桜井圭介×佐々木敦」というのがChinra.netというサイト*1に掲載されていて、内容的にはなかなか興味深いのだが、その中で桜井圭介氏*2はこんな風に嘆いている。

今更だけど、やっぱ岡田くんが05年に「クーラー」でトヨタアワード獲ってたら、ダンスシーンは変わってたと言わざるをえないなー。僕はここ1、2年の間にダンスが保守化しているという感じがすごくしているんですよ。ジャンルに籠る、というか。『吾妻橋』を始めた5年前にはもっとものすごくオープンな感じで、「あ、ダンスというものの可能性はこんなにもあるんだ」という感じでどんどん広がっていったと思うんですね。で、だんだんとそれに対する反動みたいな感じで、「ダンスはダンスでしょ」とか、「もっと真面目にやんなきゃダメ」みたいな感じになっちゃったというかね。

 分からないのはここで桜井氏が仮想敵としている「保守的(コンサバ)なダンス」というのはなんなのかということだ。桜井氏もはっきりとは言明していないのだけれど、ここで岡田利規が目の前にいるということあるにしてもあえて、岡田利規がアワードから落選した2005年のトヨタのことをいま言挙げするのであればこの時に受賞したセレノグラフィカやその後にトヨタを受賞した白井剛、鈴木ユキオ。それから受賞はしていないけれど最近の選考会で高い評価を受けたKENTARO!!、きたまり(KIKIKIKIKIKI)というような人たちを含むのではないかな、と考えてしまう。「言っていない」と否定するかもしれないが、論理的にはそうなる、あるいはそうとられて仕方のないことをここで言っていると受け取れてしまう。
 前述の対談ではついに「コンテンポラリーダンスはコンサバ」と切り捨て、「ダンスよりも演劇の方がダンスである」的なアジテーションをするに至っている。もちろん、これは桜井氏一流のレトリックであってさすがに本気でそう考えているわけじゃないとは思う。けれどこんなことを書いたのは今回の「吾妻橋ダンスクロッシング」はいままでのもの以上に最近の桜井氏のコンテンポラリーダンスに対する考え方が色濃く反映されていた感じがしたからだ。特に前半部分の一連の流れから読み取れる「これがダンスだ」という桜井氏の「主張」には思わず苦笑させられた。
 一番最初のハイテク・ボクデスは音楽に合わせて動くモノに照明を当てるだけだ。ついに人間は出てこない。ボクデスの場合、もともと通常の意味でダンスと呼べるかどうかがかなり怪しい境界線上の表現をしていたのだが、それでもこれまでは作り手である小浜正寛が自ら舞台に登場して、その個人芸を見せるという側面も強かった。しかし、このハイテク・ボクデスではもはや小浜だけでなく、人間はだれひとり舞台には登場しない。
 次がそれとは対照的なcontact Gonzo、これも通常の考えからすればダンスであるかどうかはおおいに疑問。だが、今回は殴り合う身体をただ提示するというだけではなくて、彼らが動きまわる背後の壁には光の点の軌跡によりアクションペインティングのようにリアルタイムで模様が描かれていく。最初はこれはいったいなんなのだろうと思っていたのだが、どうやら舞台上に置かれた小さなペットボトルの中に仕込まれたLEDによる青い光源をカメラに装備された光センターが追尾し自動的にその軌跡を描きだすというもののようであった。こちたこそ思わず「ハイテク・ゴンゾ」と呼びたくなるほどで(笑)、その新たな進化に吃驚したのであるが、これまでの「身体ひとつで」というところから、メディアアート的な分野との融合に対し、今後の新たな可能性を感じさせられた。ただ、以前からcontact Gonzoを継続的に見続けてきた立場としてはそういうに新しい側面にどうしても目がいってしまうことで、contact Gonzo本来の彼らの生の身体の有りように対して、目が留守になってしまったところがあり、構成上は最後に音も映像もなしでGonzoのみをたっぷり見せるところを作った方がより効果的ではないか、とも思った。
 チェルフィッチュホットペッパーは短編ではあるけれど、以前この企画で発表された「クーラー」などと深くすると構造はループやサンプリング、リミックス的なものが薄くて時系列的にリニアな構造。端的に言ってダンス的な構造は薄れ、これは完全に演劇なわけだ。相変わらず面白くはあるのだけれど、意味性に対する志向がより強まっているのだとするとこういう断片ではなくてもう少しまとまった長編が見たいという風に思ってしまう。それと上演順番通りではなくなるけれど、チェルフィッチュの山縣太一とミュージシャン、大谷能生によるLine京急は山縣ならではの「だらしない身体性」のようなものが根底にあって、その山縣の「ぶつぶつ」を大谷がサンプリング、リミツクスして、音楽的に構成していくという内容。どうしても、山縣の「存在のありよう」の問題でチェルフィッチュとの類縁性を感じるところがあるのだけれど、今回は山縣だけでなく、やはりチェルフィツチュの中心俳優である松村翔子が出演し、彼らが出演しないチェルフィッチュというのを一緒に見ることができたことで初めて分かってきたことがあった。
それはチェルフィッチュの場合、作・演出である岡田利規の演出・方法論がクロースアップされるところがあるのだが、今回、山縣、松村の出ないチェルフィッチュと彼らが登場したLine京急の舞台を続けて見て感じたのは少なくとも私にはチェルフィッチュの魅力として、山縣、松村、そして今回は出演していないけれど、これまで「三月の5日間」「クーラー」「フリータイム」と代表作には必ず出演していた山崎ルキノの存在がその舞台の印象を決めるのにかなり決定的なのだなということが再確認されたことだ。今回出演した伊東沙保も「フリータイム」に出ていたのでチェルフィッチュは初めてではないし、俳優としても「学芸会レーベル」で好演していて印象が強かった。しかし、「フリータイム」のようなセカンドバイオリン的な立場だとある種の魅力が発揮できるけれど、今回のように3人の出演者を引っ張るような立場に置かれると線の細さが露呈してしまう。
 こういうところはチェルフィッチュが演劇であるけれど、登場人物同士のからみはほとんどないので会話劇ではなくて、それゆえ、舞台を見る時によりどころとなるのはセリフの意味内容とそれを発話する俳優の身体のありようにフォーカスされてしまい、だから演劇の構造としてはそうでもなくても舞台でそれを見る時にはだれがそれを演じているかというのは身体表現の要素が強い演劇(例えばク・ナウカ)あるいはダンスにおけるソロと同様に決定的に重要なのだ。それゆえ、これまでの舞台でも多数の俳優が登場する本公演などでチェルフィッチュを見る時に少しでも退屈してくると どうしても無意識のうちに前述の3人が登場するのを待つということもあった。
 ただ、観客としてはそれは例えばク・ナウカの場合の美加理に対するような決定的な期待というほどではなかったのだけれど、今回、チェルフィッチュの後にLine京急を見て分かったのはこの2人は舞台上でやはり魅力があるということ。ただ、だからと言って山縣が自ら台本を手掛け、プロデュースしたLine京急が面白いのかというとやはりこれは基本的にチェルフィツチュがまずあってその上で余芸として楽しむものでしかないだろうという風にも思った。だから、結論としては「フリータイム」はポツドール出演で松村が不在だったから、山縣、松村、山崎の2人が顔をそろえた新作が早く見たいということなのである。
 ひさびさに復活したほうほう堂はさすがに演劇ではなくダンスデュオではあるのだけれど、この作品を見ると2人のダンスに対するアプローチが特に前半部分などは手塚夏子などからの影響がつよく感じられて、無音の状態で2人が寝たままただ足をぐるぐるさせたりといったミニマルなものになっており、逆に後半は中近東的な曲想の音楽に合わせてユニゾンで踊るという風に一変して、どこか康本雅子の影響を感じさせるようなものなっていた。いずれにせよ、この2年の中断を経て彼女らのなかでなにかが変わろうとしていることは確かで、だけどそれがまだどこか未消化。そんな感じを受けた作品だった。
 さて、快々(fai fai)については柿喰う客、東京デスロックなどと並んで次世代の若手劇団としてもっとも注目するグループではあるけれど、この吾妻橋では「フード担当」ということでそのパフォーマンスの是非についてここでは触れるようなものではないだろう。来年初めにシアタートラムで予定されている本公演に注目したいと思う。鉄割アルバトロスケットについても「私は苦手」とだけ論評しておくことにしたい。
 問題は後半のいとうせいこう+康本雅子による「VOICES」である。いとうせいこうと康本が組んでなにをやるのかということに期待していたのだが、こういうことだったというのはかなり意外であった。単純に言えばいとうせいこうが「反戦詩」をリーディングしてそれに合わせて、康本が踊るということなのだが、森雅樹(EGO-WRAPPIN')のギター演奏もフィーチャリングしてこれがなかなかカッコいいのである。
 詩のリーディングに合わせてコンテンポラリーダンスを踊るという風に聞けばこれは悪いけれど大抵の場合は見る前からダサダサで恥ずかしくて見ていられないものと相場が決まっている。そのため、私はダンスに合わせてなにかの言語テクストを無手勝流に生声で朗誦するという場合、「やめておけばいいのに」と思ってしまう。だから、逆に言えば演劇は大抵の場合、カッコ悪い。特に自分がカッコイイと俳優が勘違いしてセリフに酔ってしまっていたりするほどカッコ悪い。
 舞台の上で長セリフのモノローグ(メッセージや誌的な言語)を朗誦することの多かった80年代の演劇が平田オリザに代表されるような群像会話劇に姿を変えていくことの理由にはひとつにはそういう感性があったんじゃないかと思う。その意味ではこの「VOICES」というパフォーマンスにおいていとうのパフォーマンスが見られたということは彼のパフォーマーとしての稀有な才能を証したものであるとは思う。ただ、その一方で「これは要するにアジテーションじゃないのか」という気持ち悪さもあってあまりのめり込めない気分もあったことも確かだったのだ。
 最後の飴屋法水「顔に味噌」は演劇的コラージュというかボイスパフォーマンスというかいずれにせよダンスではなかった。飴屋法水はどうやら美術家としての活動に加えて、平田オリザ作「転校生」の演出以来、最近では「3人いる」の演出など演劇においても本格的な復活を遂げたようで注目しているのだが、前記の2つの舞台も残念ながら見ることができず、どんな方向性をもっての復活なのかというのはつかみかねている。その意味で今回の吾妻橋ではどんなパフォーマンスを見せてくれるのか興味深かったのだが、正直いって「よく分からない」。一種のドキュメンタリズムを取り入れたパフォーマンスのようなのだが、演劇として見たらあまりに構成がゆるすぎるのだ。もちろん、分からないけれどなんとなく面白いというところはないではないのだけれど、なぜ宮沢賢治よだかの星」なのか? なぜ、「ロミオとジュリエット」なのか? そういえばこういうゆるいパフォーマンスで似たようなのをどこかで見たような気がすると記憶を辿ると、高嶺格のパフォーマンスなのだった。美術家が作るとこんな風になるのか? だけど、飴屋法水の場合は美術家というわけでもないよな。
 さて、全体としては玉石混交の部分は否めないけれど、面白いイベントなのであった。それでも気になるのは桜井氏はどうしてこれを「ダンスクロッシング」としたいのかということであった。これが「吾妻橋演劇フェスティバル」であれば「ガーディアンガーデン演劇フェスティバル」も似たような内容だったし、全然違和感はないのだけれど、「これがダンスだ」というのはどうも引っかかるのだ。そもそも、なにもチェルフィツチュをダンスとしなくても優れた演劇であり、演劇として面白いのでそれでいいと思うのだけれど、どうなのだろうか。