France_pan「点在する私」@京都アトリエ劇研

京都芸術センター舞台芸術賞2009ノミネート
France_pan 15th 「点在する私」
作・構成・演出 伊藤拓
出演 本條マキ、加藤智之、神藤恭平、速水佳苗
日時(全4ステージ)
2009年9月19日(土)開演19:00
20日(日) 開演14:00/開演19:00
21日(祝・月)開演 15:00
会場  アトリエ劇研(京都)
スタッフ 舞台美術=西田聖 舞台監督=米谷有理子 照明=根来直義(Top.gear) 音響=奥村朋代 演出補佐=岩崎小枝子 宣伝美術/音=t_i 主催=France_pan 共催=京都芸術センター 協力=シバイエンジン 助成=独立行政法人芸術文化振興会

 France_panという劇団は何度目の観劇になるだろうか。実は記憶にあるだけでも、5〜6回は見ていて、若手劇団としては観劇回数が少なくはない、むしろ多いのだが、今だにその印象は茫洋としたものにならざるをえない。というのは公演を見るごとに作風が違うからだ。それで劇団のイメージというのが統一された焦点を結ばないのだ。
 これはいったいどういうことなんだろう。この「点在する私」はストーリーがはっきりとあるというようなものではなくて、作・演出・演出である伊藤が出演者である俳優4人にいくつかの質問をして、それをテープにとってもらったうえで、それをコラージュ状に再構成して、それぞれの俳優が自分の役として演じてもらうというものになっている。質問内容が「子供のころに何になりたかった」というようにその俳優自身のルーツに関することに絞られていることで、この舞台はいわば一種のドキュメンタリー演劇としての様相を呈している。 
 質問への答えのようなものをコラージュするようなドキュメンタリードラマの手法というのは日本ではそれほど例が多くないかもしれないけれど、実は過去にはけっこうやられていて、たしかピーター・ブルックもそんな風なことをやっていたはず。さらにいえば質問の答えから作品を構成していくというのはピナ・バウシュがそうだ。
 ただ、海外の場合、こういう作品の作り方においては日本の場合と違って有利な点がある。それはピナやブルックのカンパニーがそうであったわけだけれど、メンバーが年齢的に多様でしかも多国籍、多民族にあたる場合、彼らにそれぞれなにかの質問をすることがそのまま文化多様性の例証のように世界の縮図となるという面白さがあるからだ。
 ところがこのFrance_panの場合はもちろんそういう風にはならない。例えば変わっていると言っても、せいぜい男女の性差であったり、帰国子女であったりする程度で同じ大学の学生劇団出身のほぼ同世代の4人であれば質問に対する答えは似たりよったりでマルチカルチュラルな面白さはないのが当たり前だし、それほどの驚き当然予想される範囲に留まっていてそれほど面白いものではないことが明らかだからだ。
 それを承知で舞台に載せ、最後に俳優が最初着ていた衣装を脱ぎ捨てた後、いつの間にか交換して再び舞台に登場するという場面などはほとんど交換可能な日本人の等質性を暗示した場面かもしれないのだが、問題はそうしたすべてが1時間40分強の時間を継続して見られるほど面白い、あるいは興味深いものであるのかということで、正直言って現前する俳優たちの個人的情報などは私にとってそれほど強い関心を持続できるものではなく、それゆえ退屈であることを免れえないことも確かだった。 
 それ以上に不審を感じたのは常日頃、こういう構成舞台的、パフォーマンス的な舞台を手掛けている集団がこういうのをやるというのであればまだ理解できるけれども、前回公演は安部公房の戯曲、その前はシェイクスピアの「ハムレット」を上演していた劇団がなぜ突然こういう舞台を上演する必然性があるのか。そういう風には思いたくはないのだけれど、これまでどちらかというと前衛的な舞台を顕彰してきた「演劇計画」だったがゆえの今回の舞台なのだろうかなどとどうしても考えてしまう。もちろん、前衛的であることが問題なのではなくて、なぜこういう舞台をしたのか、なんのために今回のような手法を取らなくてはいけなかったのかという必然性がこの舞台からは見えてこないところが問題なのである。
 しかも、劇団の本公演ではなくプロデュース公演ではあるにしても、次回公演はまた普通に戯曲を演劇化するみたいだし、試行錯誤というにもあまりに方向性が定まらない感じが否めないのだ。私としてはこの集団のこれまで見たなかで最良の舞台は伊藤が作・演出したオーソドックスな舞台だったのだが……。