We danceについての論評

 横浜開港記念会館で16、17日の両日に開催された「We dance2010」について舞踊評論家の木村覚氏が激しい批判を自らのブログでしていて、その論旨に対して企画に参加していた大澤寅雄氏がやんわりと疑問を呈した文章をこちらも自分のブログに掲載している。
木村覚氏のブログ1 http://blog.goo.ne.jp/kmr-sato/e/48abbbbc940dd3e40e895841db7b65d5
http://blog.goo.ne.jp/kmr-sato/e/03eb97021ff79ab8a893077563326e61
大澤寅雄のブログ http://toraodoc.blogspot.com/
 木村覚氏は昨年著書として「フィジカル・アート・セオリー入門」を出版したばかりの気鋭の若手批評家であり、大澤寅雄氏はユニークな活動をしていることで知られるダンサー・振付家、手塚夏子の夫君であるとともにNPO法人STスポットの元事務局長でもある。この2人のやりとりが今後も続くのかどうかも興味深いことであるのだが、今回特にこれらのことについて筆をとることにしたのはブログのなかで「We dance2010」の批判をするに際して、木村氏がきたまり批判をしていて、この中に私の立場から見ると事実誤認か、事実を知ったうえでそのように書いているのなら難癖としか思えず、以前から彼女の作品を評価してきた身としては看過しておくには忍びない部分があったからだ。
 具体的内容に触れないとかえって混乱しかねないと思うので、以下に当該部分を引用することにする。

なんでもっと社会にコミットしないのだろう。しようとしているがセンスがなくてこの状態、ということか(補足すると、会議を開いて、みんなでひとから送られていた悩みをなるべく具体的に解決するという企画を実行した岸井大輔は、まさに社会的だった)。きたまりの「みんなで体操」は、ぼくは切なかった。これが横浜ダンスコレクションRで賞を取ったコレオグラファーの「体操」なのか???すくなくとも そうした「体操」への批評性(反省を向ける眼差し)がなければ、「コンテンポラリーダンス」なんて名のる必要はない、ただのお遊戯だ。ひとや社会を考えた成果があって、その効能を授けるべく、一緒に踊りましょうだったらわかる。ただ、朝公園で太極拳するみたいなことしてどうなるというのか?(それだったら既存の体操で充分ではないか)

と、不満を言うのもバカみたいだ。ただ一層ダンス界隈のみなさんに嫌われるだけだろう。

なんだか、柏islandでの「New World」展や高円寺無人島プロダクションでの「移動」展など見た目でダンスの現場に行くと、自分の思いとダンス界隈の思いのズレの大きさを感じてしまう。ここにあるはずでいまのところないものばかりを夢想してしまう。見方をかえれば、We danceに行かなきゃいいじゃないということなのかもしれない。自分の好きな作家のところに行ってそこで楽しめばいいじゃない、と言われるのかもしれない(誰から?なんとなくそういう声が聞こえる気がしている)。現状まさにそうなっているとも思う。いまダンスで批評(家)を名のるひとたちは、ほとんどたこつぼ的な観賞の仕方をとっていて自分の好きなものしか見なくなっているし、あえて自分が疑問に思うものに「疑問に思う」と公言したりしない。

 きたまり批判と書いたのは「きたまりの「みんなで体操」は、ぼくは切なかった。これが横浜ダンスコレクションRで賞を取ったコレオグラファーの「体操」なのか???どこにもオリジナリティを感じることが出来ない」以下の部分だが、これはあまりにもきたまりに対してアンフェアな批判ではないだろうか? というのは木村氏は「みんなの体操」できたまりを批判しているが、どうやら、きたまり自身には興味がないように見えて、その証拠に同じ日の4時からあったきたまり自身の公演(作品)は見てもいないようだ。きたまりを批判したいなら、別にそれはそれで構わないが、それならその作品を見て批判すべきじゃないのかと思う。というのは「みんなの体操」は珍しいキノコ舞踊団の伊藤千枝の企画で、振付もすべて伊藤のもの。きたまりは伊藤が参加できない2日目にダンサーとして参加してその振付を踊っただけだからだ。
 そうだとすると批判は本来、珍しいキノコ舞踊団ないし伊藤千枝に向けられるものであって、その文脈から言えばここで「どこにもオリジナリティを感じることが出来ない。いや、ぼくはべつにオリジナリティなんてなくていいと思っている、オリジナルよりもコピーの方が重要かもしれない。自分のつけた振りがどんな社会的刷り込みから出てきたものかなど反省してみただろうか?からだをほぐすのが体操ならば、ひとのどこがこっていてひとのからだのどこが柔軟になるよう努めるべきかそのコンセプトがなければならないだろう。すくなくとも そうした「体操」への批評性(反省を向ける眼差し)がなければ、「コンテンポラリーダンス」なんて名のる必要はない、ただのお遊戯だ。ひとや社会を考えた成果があって、その効能を授けるべく、一緒に踊りましょうだったらわかる。ただ、朝公園で太極拳するみたいなことしてどうなるというのか?(それだったら既存の体操で充分ではないか)」と批判すべき対象は伊藤千枝でなければいけないわけだ。
 きたまりに対する論難は単なる「事実誤認」だと考えたいところだが、そうだとしても「どこにもオリジナリティを感じることが出来ない」「ただのお遊戯だ」と書いた事実自体は本当にそう思っているのだろうから、木村氏はその批判の矛先を正々堂々と伊藤千枝に直接向けてほしい。
 さらに言えば別の日の文章では「ぼくは、決してきたまりというひと個人を批判したいのではない」とも書いているのだが、そうだとすればなぜきたまりをわざわざ引き合いに出したのか? 
 批判する対象は(これは下司の勘ぐりと取られても仕方ないけれど)きたまりならば東京での知名度も高くないし、こういうことを書いても反発を買いにくいからと少しでも考えて、安易に書いたというようなことが少しでもあるなら、彼女を無名時代から評価してきたものとして許しがたいと思う。そういうことはないと信じたいけれど。
 木村氏のブログでは実はこの後  

自分の体(自分の従う流派、スタイル)に向き合っているただそれだけでは、あなたのしていることは個人的趣味です。
踊っていることに快楽を感じている間は、恐らく、その行為はアートとはまったく何の関係もないです。
他人の身体に、振る舞いに興味をもって、それを自分の身体に反映させようとしてはじめて、何かが始まるのではないでしょうか。
反映、反省、批評性、こうしたことが存在しないものはアートではないし、同人的、動物的でしかない。はやくそこから脱するべきです。

 などと彼が考える「きたまり的なもの」を批判するわけだが、これも(きたまりもその中に入るかもしれないけれど)、例えば「珍しいキノコ舞踊団」などを対象にしたものと考えた方がいいのだろう。あるいはここにはひょっとすると黒田育世白井剛、鈴木ユキオらも入るのかもしれない。だとすれば、ここにきたまりを持ってくるような中途半端なことはしないで、木村氏にはちゃんと本来批判すべき対象を持ってきてちゃんと論陣を張ってほしい。最近やっと薄々分ってきたのは例えば「フィジカル・アート・セオリー入門」で木村氏が提唱しているような「プロセス」「タスク」「ゲーム」というような方法論に基づく作品を評価すること自体は問題ないし、むしろ啓発的だし刺激的な考え方だと思う。
 けれども、ことダンスに関する限りはそういうものだけがダンスであるとし、そこから外れたものは「踊っていることに快楽を感じている間は、恐らく、その行為はアートとはまったく何の関係もないです」と切り捨てるような姿勢はどうなのだろうか。それこそが仮想敵として闘わなくてはいけない考え方だということが次第にはっきりしてきた。つまり、ダンスはアートである必要があるのだろうかということだ。少なくともダンスの方がアートより起源が古いし、アートであるとかないとか関係なくダンスとしての価値のあるダンスは昔からあったし、今もあるのではないだろうか。このことについてはもう少し継続的に考え続けていかなければならないことだと思う。