マームとジプシー「ハロースクール、バイバイ」@京都アトリエ劇研

スタッフ
作・演出:藤田貴大
舞台監督:森山香緒梨
照明:吉成陽子
照明オペレーター:明石伶子
音響:角田里枝
宣伝美術:本橋若子
制作:林香菜

出演
伊野香織、荻原綾、河野愛、木下有佳理、斎藤章子、成田亜佑美、緑川史絵、尾野島慎太朗、波佐谷聡
<あらすじ>
ある街の片隅。ある中学校。女子バレーボール部員たち。
部活動最期の試合が始まる。試合中、部員たちの脳内を、
幾つもの思い出が駆け巡る。学校に入ってから、今まで。
取り巻く人間とのあれこれ。でも、ただただ彼女たちは、
この試合の最中を生きてる。入口から出口までの、最中。
永遠にも感じられる、最中。一試合の、凝縮された時間。
彼女たちの体温と、風景を、立体的に映した青春群像劇。

 マームとジプシーは東京でこのところ話題の若手集団だが、私が舞台を見たのは今回が初めてである。まず感じたのはロロ、快快、柿喰う客、ままごとなどと並んでポストゼロ年代を代表する劇団(集団)になっていきそうな予感である。
 杉原邦生が企画した京都国際舞台芸術祭のフリンジである「HAPPLAY」の一環として上演された舞台で、このマームとジプシーも関西での劇場公演は今回が初めて*1。今回、ロロとままごと、そしてこのマームとジプシーをたて続けに見て、そして以前に観劇した快快など印象も加えて、この世代の演劇の特徴がおおまかながら浮かび上がってきた気がする。
 ただ、共通点とは言ってもこの世代の集団には例えばこの前世代であるゼロ年代の集団の多くがそうであったような現代口語演劇、群像会話劇というような様式面での共通性がはっきりあるというわけではない。むしろ、様式(スタイル)ということから言えばその差異がそれぞれおおきく、さらに言えばままごとや柿喰う客、快快のように同一集団の作品でさえ、スタイルが作品ごとに大きく異なることもある。そういう中で共通項を挙げれば様式あるいは方法論的な前衛性と主題ないしモチーフ(あるいは物語)がエンターテインメント志向であることがなんの矛盾もなく、両立しているところに大きな特徴があるかもしれない。
 「それがどんな芝居なのか」ということで言えばマームとジプシー「ハロースクール、バイバイ」はバレーボール部の女子中学生たちを描いた青春群像劇なのだ。それはまかり間違えればとてつもなく、暑苦しくも気恥ずかしくもなりがちな題材なので、そうした傾向のものがもともと好きだったりして逆にデフォルメしてスポーツにかける青春のようなものを様式的にねつ造する(ランニングシアターダッシュ)とかなにかのメタファーのようなものとしてその素材を取り上げる(柿喰う客「露出狂」)などということはあってもこうした素材に正面から取り組むことは躊躇するようなものであるのだが、それをなんの衒いもなく取り上げて、それでいて「ありえたかもしれない話」としてサラっと描き出してみせてしまうのが、作・演出の藤田貴大という人のセンスのよさを感じさせるところだ。
 藤田の方法論はカットバックのような手法を多用して、同じシーンを若干の変奏を加えながらまるでカノンのように何度も何度も繰り返すことにある。
 会話のテンポが速く現代口語演劇の様式応用したもので、時折セリフの一部分ないし大部分が聞き取れなかったり、断片的で意味がとれなかったりすることが数多くある。だが、それぞれのセリフ、それぞれの場面はなんどもリフレインされることで次第に観客の脳内でそれぞれのイメージを結んでいく。ひとり一役であってひとりの役者が何人もの登場人物を演じたりするわけではない。
 しかし、こういう観客の脳内での現実解釈に大きな比重を置き、ある種隙間を作ることで観客の想像力の喚起を促すような手法というのは明らかにチェルフィッチュ岡田利規の影響を感じさせるものだ。
 ただ、岡田と大きく異なるのはそれを岡田がある程度、前衛的な身振りを交えて行うのに対して、同様な実験的な手法を駆使しながらも単純に青春群像劇と感じそれを楽しむ観客に対してはそれが実験的であるということをほとんど気づかせないようなやり方でやっているところにマームとジプシーのユニークさはあるかもしれない。
 6人の女子中学生たちがバレーボールの試合をする場面が最初と最後に2度繰り返される。観客の目に映る最初のそれはバレーボールのようなマイムをする女優たちにすぎない。ところが最後に同じ場面が再度繰り返された時にその試合の一瞬一瞬の6人それぞれの思いと心のざわめきがずっと以前からの知己のように観客に伝わってくる。演劇ならではのマジック(魔術)を思わせた。

*1:公演は2年前にカフェでしたことがあるらしい