ピーター・ブルック演出「WHY WHY」@静岡芸術劇場

作 ピーター・ブルック
マリー=エレーヌ・エティエンヌ
演出 ピーター・ブルック
出演 ミリアム・ゴールドシュミット
音楽・演奏 フランチェスコ・アニェッロ

製作 チューリッヒ市立劇場
共同製作 パレルモガリバルディ劇場
    バール・プロダクション
ピーター・ブルック オフィシャル・ウェブサイト
http://www.au126.com/peterbrook/index.html
会場:静岡芸術劇場
ドイツ語上演/日本語字幕

初演 2008年4月17日 
チューリッヒ市立劇場

上演時間 60分
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Warum Warum
Texte de : Peter Brook et Marie-Hélène Estienne
D'après les écrits de : Artaud, Gordon Craig, Dullin , Meyerhold, Motokiyo, William Shakespeare
Traduit en allemand par : Miriam Goldschmidt
Mise en scène : Peter Brook
Lumière : Philippe Vialatte
Collaboration artistique : Lilo Baur
Musique : Francesco Agnello
Avec : Miriam Goldschmidt, Francesco Agnello musicien

ピーター・ブルック演出、ミリアム・ゴールドシュミットによる一人芝居。ピーター・ブルックの著書「なにもない空間」ではないけれど、舞台装置もほとんどなく、素舞台のような空間にミリアムは演劇的空間を作り上げていく。

なにもない空間 (晶文選書)

なにもない空間 (晶文選書)

ピーター・ブルック演出「WHY WHY」

 この舞台は典型的な「演劇についての演劇」つまりメタシアターであり、テクストの中には世界の演劇史に残る演劇人(アントナン・アルトー、ゴードン・クレイグ シャルル・デュランシャルル・デュラン、 メイエルホリド、世阿弥シェイクスピアの言葉がちりばめられていて、全体として「演劇とは何か」を思考するような内容になっている。
メイエルホリド

 ピーター・ブルックの作品が日本で上演されるのは2001年6月の「ハムレットの悲劇」@世田谷パブリックシアター以来のことで、ちょうど10年ぶりのことだ。ずいぶんひさしぶりである。しかも今回は当初上演されるはずだった演目が震災や出演者の急病などで2度にわたって差し替えられたうえで、急きょ上演されることになった。
 こういうメタシアター的な演劇は60年代〜70年代には流行して上演されたようだが、最近は珍しいかもしれない。ただ、ピーター・ブルックの場合、 

2001年6月23日日記風雑記帳(下北沢通信)
 6月23日 新国立劇場バレエ「トリプル・ビル」(3時〜)、ピーター・ブルックハムレットの悲劇」(6時〜)を観劇。

7月24日 ピーター・ブルックハムレットの悲劇」(6月23日、世田谷パブリックシアター)についての感想をレクエストを相当昔のことながらもらっていたので書いておこうと思う。今年はどういうわけだか、「ハムレット」のあたり年で、この後は関西でも劇団四季ハムレット」が上演されるし、扉座が「フォーティンブラス」と「ハムレット」を連続上演する。さらにここ数年演出を少しずつ変えながら「ハムレット」の上演を続けてきた蜷川幸雄も新演出版での上演が予定されている。このうち、劇団四季(9月6日)、扉座(9月15日)はチケットをすでに確保して観劇予定があるため、これらの上演を見たうえでまとめて感想を書くつもりだったのだが、上記の理由もあり、ブルック版については簡単に感想だけは書いておくことにしたい。

 ピーター・ブルックの上演は黒人俳優であるエイドリアン・レスターをハムレットに起用したり、オフィーリアにインド人のシャンタラ・シヴァリンガッパを持ってきたということに特徴はあっても演出自体はオーソドックスなものであった。その意味ではざん新な演出を期待していた私には肩透かしを食わされた感が強かった。これでも欧米の演出としてはある種の前衛の基準にあてはまるのかもしれないが、日本でのなんでもありのシェイクスピア演出に慣らされた目にはどうしたんだろうという感じなのである。もっとも、以前に見た「しあわせな日々」(1997年10月)も主演にナターシャ・パリーを配したオーソドックスな舞台でそれほど演出面での新奇性は感じられなかったので、もはやブルック=前衛と考えるのは的がはずれているのかもしれない。

 「ハムレット」はシェイクスピア作品のなかでも長大な作品であり、劇中劇や道化とハムレットのやりとりなどその内部に様々なメタシアター的な要素を取り込んでいることもあってそのまま全てを上演すると4時間近い上演時間が必要になる。そのため日本の上演においてはどこかしらに焦点を置いて戯曲の一部をカットすることも多いのだが、ブルックの上演ではそのカットがかなり大幅なもので、芝居の一部の順序を入れかえるなどして、2時間20分に短縮されている。これは方形の赤い絨毯だけを敷いた舞台装置や土取利行のパーカッションなどの生演奏によるシンプルな音楽などとも合わせ舞台にある種のスピード感を与えていることは認めなくてはいけないが、その結果、登場人物ではハムレットに焦点が通常にも増して集まることで、宮廷劇としてのこの芝居が持っていた政治劇的な側面やハムレットの道化=ヒーローの2重性といったこの芝居にシェイクスピアが仕掛けたメタシアター的な要素は背後に退き、ハムレットを中心とする家庭劇の色彩が強くでていた。

 そのことがもっともよく感じられるのはブルックがフォーティンブラスのくだりをまるまるカットしてしまったことであろう。それだけではなく、レイアティーズを王にとの声のもとにレイアティーズが支持者らに後押しされる形で王城に迫ってくるシーンもなくなり、ホレーショの出番も減ってしまっているため、役柄における印象の上でハムレットへの比重が一層高まってしまい、それぞれの人物がそれぞれのドラマを持っているというシェイクスピアシェイクスピアらしさはあまりなくて、主人公ハムレットの等身大の造型も合わせて、現代劇の枠組みに近いものになってしまっているのである。

 ハムレットの造型は私の個人的な解釈ではあるがある時は演技をする人間であり、ある時は観察者(道化)、ある時はヒーロー(行動者)という多重性がハムレットをそれまでのギリシア悲劇的な主人公とは異なる現代的な属性を与えているところであって、エイドリアン・レスターの演じるハムレットにはそうした複雑さは感じられない。それは現代人としてのハムレットを描くという意味においてはピーター・ブルックの狙いでもあるのだとは思うが、そこのところがよくできた舞台であることはに認めながらもこの芝居をどこか物足りなく思ったところでもあった。