円居挽「丸太町ルヴォワール」「烏丸ルヴォワール」

丸太町ルヴォワール (講談社BOX)

丸太町ルヴォワール (講談社BOX)

烏丸ルヴォワール (講談社BOX)

烏丸ルヴォワール (講談社BOX)

 円居挽「丸太町ルヴォワール」「烏丸ルヴォワール」を続けて読了。キャラクター設定などライトノベル風味は色濃い。しかし、京大ミステリ研特有の叙述ルールはかなり厳密に守られており、そういう意味では清涼院流水ではなく、綾辻行人法月綸太郎麻耶雄嵩我孫子武丸らの直系である。
 京大ミステリ研特有の叙述ルールと書いたのは実は私も「京都大学推理小説研究会(京大ミステリ研)」のOBだからだ。ミステリ研には「犯人当て」というゲームがあった。それは創設者の時代から代々伝わってきて、私たちの時代*1にはその基本的なルールが確立されていた。犯人当てとは簡単に言えば会員による創作のミステリ小説なのだが、問題編をまず会員諸氏の前で発表して(私たちのころはほとんど朗読という形をとっていた)それぞれに解答を提出してもらったうえで、解答編を発表するという形式という発表形式を取っていた。
 そのまま文章化されたものを読めば多くは短編(場合によっては長編クラスの大作もあった)の本格推理小説でもあるし、犯人当て自体は別に京大ミステリ研の専売特許ではなく、昔からあったものなのだが、京都大学ミステリ研の犯人当ての特色は推理小説の本文である探偵対犯人の闘いではなく、作家(出題者)と読者(回答者)の間の対戦ゲームという性格がよりクローズアップされていったことであろう*2。叙述をはじめとした問題におけるルールが通常の推理小説よりも厳密に設定されたうえで、逆にそのルールに合致している(つまり設定の範囲内でフェアな描写をしている)限りは作者は読者を騙すためのどんな手管を使ったとしてもそのことによって解答者をあっと言わせることができれば称賛されこそすれ、非難されることはない。そのことによって通常の本格ミステリ(いわゆるパズラー)とは似て非なる特殊な進化を遂げたのだ。
 
 「丸太町ルヴォワール」「烏丸ルヴォワール」の2作品にはいくつかのいわゆる叙述への周到な仕掛けにより読者に当該の描写によって描かれていることを意図的に誤認させるアイデアがいくつも盛り込まれている。世間一般ではこういう描写に仕掛けられた罠を叙述トリックと呼ぶのだが事実誤認をさせるための描写においてどこまでは許されて、どこからが許されないのかに対しては実は京都大学ミステリ研の在籍者だけが分かる厳密なルールがある。
 このルールがあるからこそ、犯人当てが出題者と解答者が同じ土俵に立ってゲームとして成立するのだが、そのルールがどういうものかについては厳密に定義され明文化された規則が定められているわけではない。それでもルールは確実にある。というのはミステリ研の経験者であればそれがミステリ研特有のルールに基づいて書かれているのかどうかは実は一目瞭然で分かるからなのだ。
 もちろん、京大ミステリ研の出身者であるからといって、書いているのは犯人当てではなくて、特に典型的なのは綾辻行人なのだが、例えば綾辻の「殺人鬼」。ホラー仕立てで通常の意味ではパズラーとはいえないあの小説のなかで綾辻がなぜあんな風な描写の綱渡りをしているのかが、解せないのではないかと思うのだが、それはおそらく綾辻の仮想の想定読者がかつての京大ミステリ研時代の仲間たち(あるいは後輩)であって、そのために自分に京大ミステリ研のルールを課さざるをえないということがあって、部外者にはまったく理解できないようなこだわりにおいて微細な描写にこだわるということになるのだと考えている。
 「丸太町ルヴォワール」「烏丸ルヴォワール」の作者である円居挽は私(綾辻はひとつ下の学年だからほぼ同世代)とはもはや二回りも違う世代であるし、その間には京大ミステリ研特有の犯人当ての論理とはまったく異なる論理(ルール)をもてあそぶ清涼院流水も入っているわけであるから、円居が京大ルールに準じている必然性はほとんどないわけだし、彼らの世代で犯人当てがどのように運営されていたのかは見当もつかないのだが、今回この2作を続けて読んでみてすぐに分かったのはこれは京大ルールと私が考えているものをかなり厳密に守ろうとしていたことで、これは例えば同じくミステリ研(同志社大)出身で本格推理小説の優れた創作者である有栖川有栖がこうしたルールをまったく共有していないのと同じくらい確かなことだと思われたのだ。
 念のために少し補足しておくともちろん有栖川有栖と京大ミステリ研の作家たちは描写におけるルールが違うという風に書いているだけであって、それがミステリとしての価値を論じているのではいっさいない。
 たぶん、ここに書かれた文章は具体性を欠いていて、ミステリ研時代の仲間以外にはなんのことを書いているのか全然分からないとは思うのだが、そのことを具体的に説明するためには実際のトリックに詳細に触れざるをえなく、それをする必要がここであるのかどうかについて確信が持てないでいる。
 そこで一般論として例えばどういうルールがあるのかを示すために少しだけ説明すると、例えば犯人ないしなにかを企む第三者が他人を装ってある人物(ここでは仮にKとしておくと)に成りすましている。この場合、京大ミステリ研の犯人当てルールでは地の文章で「Kは……した」という風に描写することは許されない。
 ただ、地の文ではなくてその人物に対しての「Kさん、××ですよね」という第三者の発言に対し「××じゃなくて○○ですよ」とその男は答えた。そういう一連のつながりはもちろんセーフである。実際、通常のミステリ作品では作中人物の全員がKとみなしている人物に対しKの三人称描写を使うことは許されることが多いが、京大ルールではこれはNG(だめ)だった。そして、円居の描写の仕方をよく調べてみるとほぼこのルールに従っていて、これだけじゃなくほかのことでもほぼ京大犯人当てルールに準拠していることが分かるからだ。
 もう少し先まで考えてみるとひょっとしたら円居挽の小説に出てくるこの私的裁判・双龍会というものだが、 「そこに求められるのは正しい正しくないではなく、納得させる論理」というところなどひょっとしたらこの小説そのものが京大ミステリ研の犯人当てそのもののような気がした。先にも書いた大川氏の「ナイト捜し」の論理がサークル内部においてフェアアンフェア論争を生んだ際にもそれがセーフとなる最大の理由は「そうした方が面白いから」であった。実は私も京都大学時代に犯人当てを書いたことがあり、それは11月祭の際に外部からの来場者に向けて発表されたのだが、その際に犯人を当てられなかった同志社ミステリ研の人たちの捨て台詞が「卑怯このうえない。騙すためだったらなにをやっても許されるのか」ということらしかったのだが、少なくともその犯人当て「MIDORI MURDER CASE」もミステリ研内部ではぎりぎりセーフと見なされていた。つまり、周囲をあっといわせて「これは面白い」と思わず膝を打たせるような発想が含まれているものならばなんでもセーフなのであり、双龍会はその伝統のもとに生まれたものと言わざるをえないのである。
 
   
  
 

*1:綾辻行人より1学年上である

*2:そのきっかけとなったのが先輩である大川一夫氏の「ナイト捜し」という作品でそのことについては大川氏自身がこちらhttp://www.okawa-law.com/hobby/holmes.htmlのサイトで述懐しておられる