シスカンパニー「かもめ」@Bunkamuraシアターコクーン

【作】アントン・チェーホフ

【演出・上演台本】
ケラリーノ・サンドロヴィッチ

【出演】
トレープレフ・・・・生田斗真
ニーナ・・・・・・・蒼井 優
ソーリン・・・・・・山崎一
ポリーナ・・・・・・梅沢昌代
マーシャ・・・・・・西尾まり
メドヴェジェンコ・・中山祐一朗
ドールン・・・・・・浅野和之
シャムラーエフ・・・小野武彦
トルゴーリン・・・・野村萬斎
アルカージナ・・・・大竹しのぶ ほか


 KERA演出「かもめ」*1*2の最大の特徴は冒頭の劇中劇の部分がとてつもなくうすっべらいことだった。どうも日本の演劇界に巣くう「前衛は善」という幻想からか、従来の「かもめ」の上演では劇中劇であるトレープレフの演劇は斬新で素晴らしいものなのだけど、旧弊な周りの大人たちの無理解のため評価されない、という解釈が多い。そのような解釈は本当に正しいのだろうかというのが私が以前から「かもめ」の劇中劇に感じてきた疑問だ。「劇中劇は素晴らしい」という演出が出てくるひとつの要因はモスクワ芸術座の上演でトレープレフを演じたのが、メイエルホリドだったことだ。「かもめ」も演出したスタニスラフスキーがリアリズム演劇の巨人だとすれば、ロシア演劇のもうひとりの雄がメイエルホリドで、劇中劇から受けた影響から彼の反リアリズムの身体表現を重視したロシア前衛劇が生み出された。こうした歴史的事実が背景にはある。
 だがこれは時間軸が逆転しているのではないか。チェホフの意図は違う。チェホフ自身の作風からすれば作中に登場するトリゴーリンは確かに戯画化された部分はあるけれどチェホフの分身のようなところがある。しかし、トレープレフは劇や小説の作風からしてもチェホフではないのは明らかで、チェホフには自己をトルゴーリンとして茶化してみせるシニカル(皮肉)さはあり、それはきわめてチェホフらしいといえるが、トレープレフのような野心的な若者をことさら持ち上げるのはらしくない。つまり、ここで考えたいのはもともとチェホフは軽薄なものとして劇中劇の部分を書いたのじゃないかということである。
 だから、一幕目の劇中劇がうすっぺらく見えるのはチェホフの意図通りともとれるのだ。だがKERA演出の仕掛けはそれだけにはとどまらない。うすっぺらさにKERAはもっと大きな意味を持たせた。劇中劇の蒼井優(ニーナ)にKERAはどう考えても戯曲の内容が分かってないような棒読みのセリフ回しをさせた。これは明らかに意図的なものでそれはここでのニーナの女優としての未熟さも示している。
 この劇中劇のセリフの一部は最終幕でも朗唱されるが蒼井優の演技には大きな違いがあった。蒼井優そしてはそれを支えたKERAの演出は ここでのわずかなセリフの繰り返しの大きな質感の差だけで「1人の女優の卵が、一人前の女優になったこと」を体現させてみせた。きわめて鮮やかでこれこそ、「かもめ」が女優についての劇である象徴的場面だ。
 そしてその同じ幕でKERAは、そしてチェホフはトレープレフを自殺に追い込む2人の女優(アルカージナとニーナ)の残酷さも余すことなく抉りだす。トレープレフはこの幕では作家として成功し、それなりの名声も得ているがアルカージナは相変わらずトルゴーリンに執心でトレープレフの著作には見向きもしない。封もきってない雑誌を手渡され、トレープレフは絶望し、あるいは自分が現在書いている小説の出来の悪さにうんざりして書きかけたそれを破り捨てる。そこに雷鳴のなかに現れるのがニーナだが、彼女は自分のことしか話さない。一応、最初にトレープレフが作家としての名声を得たことを祝うようなセリフを語るけれど、その後はすぐに自分の話になって、昔は名声が大きなものと思っていたけれど今は違うとトレープレフが唯一得ている名声の価値を全否定。さらにいまでも自分が愛しているのはトリゴーリンだけだと追い打ちをかける。ここでの錯乱ぶりに以前はこの戯曲を読んで、ニーナも遠からずトリゴーリンの後を追って自殺するかもと思った時期もあったが、「女優」は簡単には自殺しないというのがチェホフの哲学ではないか。
この自殺の場面は一幕でトレープレフが自殺未遂をする場面と呼応しているが、ここではトレープレフ自殺への引き金を引いたのはニーナで、しかしそうなってもニーナもアルカージナもむしろそれを糧として女優の芸の肥やしにしていくんだろうなと思わせる、KERA版「かもめ」に登場する2人の女優にはそんなたくましさ、恐ろしさを感じさせた。
 チェホフの最大の不可思議はなぜ女優の恐ろしさを抉り出したこんな舞台をよりによって女優である恋人のために書いたのかかもしれない。さらをいうならそれを女優を妻に持つKERAがどんな気持ちで演出したのかというのももうひとつの不思議なのかも。もっとも、この「かもめ」に女優の恐ろしさを読み取るのは私のような男ばかりで、当の本人の女優はもしこの舞台を見たとしても「自分ならニーナを(あるいはアルカージナを)どう演じるか」しか考えない、そういう人種。それこそこの戯曲でチェホフ自身が描き出している女優そのものと言っていいかもしれない。