ままごと「わが星」@三鷹芸術文化センター星のホール  

作・演出:柴幸男 音楽:三浦康嗣(□□□)
 振付:白神ももこ[モモンガ・コンプレックス] ドラマトゥルク:野村政之
 舞台監督:佐藤恵 演出部:白川のぞみ(てとあし) 美術:青木拓也
 照明:伊藤泰行 音響:星野大輔 衣裳:藤谷香子[快快] 宣伝美術:セキコウ
 制作:ZuQnZ 制作総指揮:宮永琢生
 助成:芸術文化振興基金 公益財団法人セゾン文化財団 企画制作:ままごと、ZuQnZ
 主催:三鷹市芸術文化振興財団、ままごと
 出演:
           初演    再演      今回
          青年団リンク 第2回公演   
          2009/10/8-12 2011/4/15-5/1 2015/5/16-6/14
           7ステージ  17ステージ  33ステージ
           三鷹市芸術文化センター星のホール
                 6都市ツアー  小豆島 7/18-20
           一般2500円 3000円    3500円
           1時間19分  1時間25分   1時間33分

 わたし(ちいちゃん) 端田新菜  ←      ←
 お姉ちゃん     中島佳子  ←      ←
 お母さん      黒岩三佳  ←      ←
 お父さん      永井秀樹  ←      ←
 お婆ちゃん     三浦俊輔  ←      山内健司[青年団]
 月ちゃん      斎藤淳子  ←      ←
 先生        青木宏幸  ←      寺田剛史[飛ぶ劇場]
 男子        大柿友哉  ←      ←

 ままごと「わが星」を三鷹芸術文化センター星のホールで観劇した。いわずと知れたゼロ年代の終わりとポストゼロ年代の始まりを告げる鐘を鳴らした柴幸男の代表作である。2009年に初演、翌2010年に岸田戯曲賞を受賞。そのさらに翌年の震災の記憶もまだ生々しい4月に再演。私は初演は残念ながらDVD映像でしか見ることができなかったが、それでもひょっとしたら演劇の新しい流れがここから始まったのではないかというほどの衝撃を感じ、生の舞台を見ていない段階でレクチャーで取り上げ関西の演劇ファンにその舞台を紹介した。実際の舞台を見たのはその後の6都市ツアーの一環で上演された伊丹アイホールでの上演。今回の再再演はその時以来4年ぶりとなる。
 実は今回の再再演でもっとも興味深かったのは「わが星」の作品自体というよりはむしろ「わが星」現象とでもいったらいいのかと思うその受容のされ方だ。これほどの熱狂的な賛美とそれに反発するように反感からの憎悪をこめた否定にさらされた作品も最近の演劇において珍しいのではないか。実は6月28日のシアターアーツ劇評講座に向けて現在までに手元には4本の劇評が届いているのだが、その4本も内容的にはいろいろな差異はあるにしても2本が賛美、もう2本が否定とはっきりと分かれた。
 実はこれは今回に限ったことではなく、再演時の2010年に劇評サイトwonderlandで3本の劇評によるクロスレビューが試みられたが、その際にも片山幹生氏が評価する評を書いたのに対し、西川泰功氏がクロスレビューであるということは考慮してもさまざまな角度からこの作品に対し否定に否定を重ねるというちょっと普通は見ることができないほどの敵意に満ちた批評を掲載。3人目の堀切和雅氏が片山、西川両氏の批評を引用しながらもどうしてひとつの作品についてこのような見方の違いが出てくるのかについて簡潔に分析を提示している。
 岸田戯曲賞を受賞した定評ある作品ゆえに賛美の評の多さは別に驚くことではないが、先にも書いたようにより興味深いのは否定派の多くがこの作品について必要以上の感情的な反発をむき出しにするのかという疑問である。例えば平田オリザの「東京ノート」、あるいは岡田利規「三月の5日間」はいずれもその当時の演劇のスタイルを一変させるほどの革新を現代演劇に付け加えた傑作だった。当然、賛否も生じたことも確かだが、否定派の反応はせいぜい無関心か黙殺であり、それを激しく否定して論陣を張るというようなことはなかった。
 今回の否定派のひとりである坂崎誠氏は「わが星」を靖国神社に準え「観劇後にも靖国神社の母親の気持ちは依然わからないのですがそうさせるシステムが存在することを理解しました。今ある人生は小さいが美しいそれを守るため守っていくためには何をしてもいいという。かわいいわが子や自分自身を捧げてもいいというコミュニティーの存在を強固にしていく企みが理解できました。これを子供たちが演ずることでもっと強固な日本、所属するコミュニティーや宗教団体への忠誠心が作られる」と批判している。
 「靖国神社」には固有名としてそれを持ち出せばA級戦犯の合祀にともなう中韓の参拝への反発など政治的な文脈を無視することはできないためにここでそれを持ち出したことにはやや疑問も感じるが「今ある人生は小さいが美しいそれを守るため守っていくためには何をしてもいいという。かわいいわが子や自分自身を捧げてもいいというコミュニティーの存在を強固にしていく企み」を「わが星」を読み解くことは「その日常性の賛美はあまりに無邪気に感じられることもあり、ある種の新宗教に対して抱くような警戒心を持った観客も少なくないはずだ」「ちょうど読経したり、聖歌を歌っているときに感じるような宗教的な法悦感」「観客をマインド・コントロールしかねない巧妙な仕掛け」と片山氏が指摘した「わが星」が持つある種の宗教的な構造とそれに対する警戒心ということに通底しているところがあることも確かだ。ただ、靖国の名前をそこで持ち出せばワーグナーナチスの関係を想起せざるを得ず「わが星」はファシズムであるとの批判をしているのとほぼ同じ意味となる。もしそれを本気で主張するのであれば「星が消え去って永遠の存在になることと、兵士が戦死して英霊になるプロセスが類似して感じられる」という程度の類推では不十分でもっと厳密な論証が必要不可欠と思われる。
 もっとも「わが星」の持つ宗教性については賛美派と思われるなかむらなおき氏の評においても「なんという作品なのだろう。まさに生を体感させられた。私だけでなく、色んな生を体感させられたのだ。そしてこの体験は公演される度に繰り返される。これはまさに輪廻じゃないかと想像させられる。100億年の時を思うと、弥勒菩薩が悟りを得るまでの56億7000年なんてさほど遠くない未来と思えてくる」と否定しておらず、この作品をどう受け取り方の賛否はむしろその宗教的とも見なしうる体験をどのように評価するのかにこそ大きな分岐点があるのかもしれない。
 一方、こちらは全面的な賛美派とは言いにくいものの戯曲には若干難があるもののそれが音楽とともに上演される時に感動とつながる仕組みがあると分析したのが佐藤一成氏。「だが、それが、日常会話を伝えるラップと音楽で立ち上がる。そこに『見守る』ということが客席の構造からも、観客席の子供がいることからも情念を刺激される。そこに宇宙的な視点が加わる。表現的な面からもまた劇場の構造からも、観る者に多くの想像力が生まれ、思い入れることの出来る構造である。立体的に立ち上がっていけばいくほど感動は深まっていく。それは、『わが星』が戯曲の時はそれほど評価が高くなかったのに上演時の感動の証左でもあると同時に、それが、永井愛が言う、捨て難い立体構造ということになるのかもしれない」と主張する。 
 もっともこうした構造により実際に観客がなにを受け取るかは個人個人の資質にも左右される。「これらの時報にたとえるような説明の効果も、宇宙観を具現化しようとしているのでしょうか。 その効果を理解することができませんでした」「地球という星の時の流れがモチーフでありながら、その地球とイメージを重ねているであろう主人公のちいちゃんは、いつまでたっても子供で、家族の他の人物も含めて、ひとりひとりの人間の人物像が浮かびあがらず、人間=星というイメージには繋がっていきませんでした」と坂崎真理さんが回想するように作品の描写する宇宙や太陽系の姿に対してビビッドな印象が浮かばないような向きにはこの作品に入り込むことが難しいということもあるのかもしれません。
 実は今回のような観客の側の臨界点に興味を持つことになったのは実は私の個人的な体験が基にある。実は今回劇評講座に取り上げることもあって今回の再再演の舞台は2回観劇した。さらにそのうちの2回目の観劇は妻と同伴して2人で見たのだが、妻はどうやら「わが星」があまり気に入らなかったようで、観劇後非常に不機嫌でなだめるのにかなり苦労したのだ。最初聞いてみるとどうもちいちゃんの家族の描き方がどうにも偽善的で耐え難いというのだ。
 そうした意見は以前からありそのうちのよくある例が家族の描き方がステレオタイプだということで、それには「普遍的」な誰にでも当てはまるようなものにすることでそれぞれが持つ記憶のフックにかかりやすいような仕掛けだと説明したが、それで感情移入がしたくなかったわけではなく、逆だという。「わが星」にはおばあちゃんのほかに父母と少しだけ年の離れた娘ふたりという家族構成なのだが、それが自分に近いため、それが昔あって嫌だったこととかの閉じ込めておいた記憶を開けるパンドラの箱のような効果をおよぼし、自分はすごく嫌な気分になっているのに舞台上の家族、とくにちいちゃんがあまりに能天気な感じなので不愉快な気持ちが徐々に積み重なってきて耐え難くなってきたということらしかった。そこまでは柴の舞台の責任とも言い難いとは思うが、面白かったのは周囲の観客の多くが感動しているのが分かるのでそれで余計に理不尽な怒りが倍増してきて、感動している観客にも怒りの矛先を向けようとしたくなってくるということだった。
 これを聞いて思ったのはそれぞれがそれぞれの理由をつけてはいるが、「わが星」になぜか靖国神社を見た坂崎誠氏の場合もwonderlandに酷評を書いた西川泰功氏にしても劇場で自分はほとんど良さが発見できなかった舞台に観客の多くが感動しているのを体験して、そこでの何ともいえない疎外感がここまで強い否認に向かわせた要因ではないかと思わせられたのだ。