青年団リンク・キュイ「現在地」(岡田利規脚本)@アトリエ春風舎

青年団リンク キュイ「現在地」
脚本:岡田利規 演出:綾門優季

震災直後にチェルフィッチュ『現在地』を観た時、これからの日本の陰鬱な未来が想起され、背筋が凍りました。でもその反応は、震災直後という呪いにかかっていただけなのかもしれない、と数年経ってから、思いなおしました。私達の立っている現在地から、『現在地』をみつめなおす試みです。

青年団リンク キュイ

2011年、綾門優季を主宰として旗揚げ。専属の俳優を持たない、プロデュース・ユニットとして活動を開始。
2016年より、Cui?から青年団リンク キュイにユニット名を改称。

周囲の迷惑もはばからず手厳しい糾弾をひたすら浴びせかける登場人物、知ってはいるけれど口にはしない不幸な真実をあえて口にした時の気まずい雰囲気、現代日本には珍しいほど仰々しい文語的セリフまわし、過剰なまでに長くややこしいモノローグ等が作品の特徴。
出演
坂倉花奈(青年団) 坂倉奈津子(青年団) 大竹このみ(無隣館/贅沢貧乏) 鶴田理紗(無隣館/白昼夢)
西村由花(無隣館) 新田佑梨(無隣館/ホロロッカ) 中田麦平(シンクロ少女)
スタッフ
ドラマトゥルク:朝比奈竜生(青年団)
演出助手:穐山奈未(無隣館)
照明:井坂浩(青年団)
音響オペ:櫻内憧海(お布団)
音響プラン:櫻内憧海(お布団) 神田川雙陽(劇団粋雅堂)
宣伝美術:得地弘基(お布団/東京デスロック)
衣裳:正金彩(青年団)
舞台監督:河村竜也(青年団)
舞台美術監修:濱崎賢二(青年団)
制作:谷陽歩 杉浦一基
協力:原田つむぎ(東京デスロック)

総合プロデューサー:平田オリザ
技術協力:大池容子(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)

 日本現代演劇の最前線という意味でいまもっとも注目している劇作家・演出家が青年団リンク・キュイの綾門優季*1だ。そしてゼロ年代(2000年代)半ばにその位置にいたのは間違いなくチェルフィッチュ岡田利規*2だった。その岡田が震災後の2012年*3に上演した「現在地」を綾門演出で上演されるということで、そこにいったいどのような新たな切り口が生まれてくるのか。そこにまず興味が引かれた。
 チェルフィッチュの舞台はモノローグを多用した代表作「三月の5日間」を始め、様式が固定しているわけではなくてもチェルフィッチュ調とでもいうべき独特のスタイルを取ることが多い。そういう中では新たな演劇的な方法論の探究・実験よりも描かれる対象にストレートに斬り込んだためか、この「現在地」はチェルフィッチュの上演では例外的に平田オリザ的な現代口語演劇あるいは群像会話劇に近いオーソドックスな表現という風に感じられた。場所も国もどこだかよく分からないような(しかし、劇中では一応日本ということにされている)小さな町を舞台にそこで起こった不思議な事件が寓話(ぐうわ)的な筆致で描かれていくが、当時の印象では直接言及するのは避けているが、これは明らかに福島第一原子力発電所の事故についての話で、しかも原発事故そのものというよりも主として放射性物質による汚染にともない起こる被害についての言説において引き起こされた分断、ディスコミュニケーションについての物語を寓話のように展開したという風に私自身は受け取ったし、多くの観客もそのことを共有していたように思う。
  岡田利規は震災直後の2011年9月に「家電のように解り合えない」という作品を上演。震災はこれ以降の岡田の最大の主題(モチーフ)となっていくが、なかでも震災後の原発事故を巡る言説の中から立ち現れた「分かり合えない」「不寛容」などの問題は最重要主題といっていいかもしれない。
 チェルフィッチュの上演での会話体は時期によってそのスタイルを大きく変容させているが、役者が舞台に登場して「これからはじめます」と客席に向かって語りかけるところから舞台ははじまるというようにモノローグを主体に複数のフェーズの会話体を「入れ子」状にコラージュするというそれまでに試みられたことがない独自の方法論により構築されるまったく新しいタイプの「現代口語演劇」であった。
 これはそれまでの群像会話劇の形態を取ってきた口語劇とはまったく異なり、そこが「チェルフィッチュ以降」「岡田以降」などとその後に相次ぎ登場した若手劇作家が呼ばれたようにスタイル上の大きな切断点だったということができる。
 ところがこの「現在地」は初演を見て驚嘆したのだが、それまでの岡田作品とは異なり、7人の女優(登場人物)が劇中劇の場面を除けば誰ひとりとして複数の人物を演じるということもなくて、一見オーソドックスな群像会話劇の形式を踏襲しているように見えた。青年団リンク・キュイの今回の上演が面白かったのはキャストの多くが青年団ないしその予備軍ともいえる無隣館の俳優であるから当然通常の群像会話劇のような演技・演出もできたはずだが、あえてそうはしないでどちらも2列に組まれている対面式の客席の前列に俳優が最初から観客に交じって座っていて、演技をする時にはそこから起ち上がって演技をするわけだが、セリフの多くを椅子からそのまま起ち上がった時の正面の向きで発していることだ。
 チェルフィッチュの上演の時にはそのようには感じなかったのだが、こういう形で上演されてみると「現在地」のセリフの多くが基本的にモノローグである。例え誰か特定の場面で特定の人を相手にして話した言葉でさえも、相手に伝わるということを前提としていないモノローグだということが了解されてくる。岡田が「現在地」で提示した私たちの通じあわなさというのはまさにこういう状況なのであって、それが震災後日本のそこここで起こっていたという状況をいま改めて思い出させた。
 確かに2012年に初演を見たときは(スケジュールの関係で福岡イムズホールでの観劇となった)震災後の状況についての隠喩(メタファー)であるとしか受け取りようがなかったし、被災地と遠く離れた福岡でさえそう感じられた。
 ただ、アフタートークによれば綾門がチェルフィッチュの作品のうちあえてこの作品を選んで再演しようと考えたのはせんだい短編戯曲賞の2度の受賞などもあって仙台の人たちの声を聞く機会があり、「被災地の仙台でさえ、震災体験が風化しつつあるということを聞いて、いま上演してどのように受けたられ方が変わるのかを確かめてみたい」というのがあったということのようだ。
 戯曲は直接に震災のことを描いたわけではない。「村」のはずれにある湖で目撃されたという不吉な雲とそれが「村」が破壊するという噂──。その噂を信じる人と信じない人が生じることで村人は次第に分裂し、ついには湖の底から突然現れた舟と呼ばれる乗り物に乗り、この村から永遠にどこかに去っていく人たちと村に残る人に分かれてしまうが、その後も村を去った人は村が滅びて消滅したと信じている。それとは別に不穏な人たちが去っていったことで元の平和な村に戻ったというもう一つの未来も提示されるがこの物語の中ではどちらが真実であるのかは確定されることはない。
綾門は岡田の脚本をシーンの順序の入れ替えを除けばカットや付加などの大きな改変をすることはせずにほぼもとのまま上演した。ただ、チェルフィッチュの上演でもっともショッキングな場面であるハナ殺しの場面を冒頭に持ってきて、彼女が声だけしか舞台に出てこないようにした。さらに中田麦平演じる黒服の男が最初から最後まで舞台のそこここを徘徊するような演出を付け加えた。そして、その結果、直接は描かれない災厄あるいは死のイメージがチェルフィッチュ版以上に舞台を覆い尽くすような空気が感じられた。

*1:青年団・現代演劇を巡る新潮流 vol.1 綾門優季青年団リンク キュイ)評論編 http://spice.eplus.jp/articles/51174

*2:「現代日本演劇・ダンスの系譜vol.1 チェルフィッチュhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000226

*3:2012年演劇ベストアクト http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20121231/p1