POOL3@新世界BRIDGE

「POOL3」(新世界BRIDGE)を見る。
 大阪現代芸術祭プログラムミュージカルインスタレーションシアターFACEとして企画されたパフォーマンス「POOL」の3回目の公演である。ミュージシャンで維新派の音楽監督も務める内橋和久のプロデュースで、この日はBプログラム。内橋が昨年、山口情報芸術センターで行ったインスタレーティブ・コンサート「path」で使ったマルチムービングサウンドシステム(システムプログラミング/伊藤隆之=YCAM)を用いたパフォーマンスだったのだが、これが相当に面白かった。まだ、公演が明日(4月2日夜8時)1回残っているのでもう時間が許す人はぜひ新世界・フェスティバルゲートまで見にいってほしい。
 1回目の「POOL1」では床一面に無数とも思われる蛍光灯を敷き詰め、2回目「POOL2」では十数トンの白い砂で会場を埋め尽くすなど「そんなことやったら、大変なことに」という無体な企画を続けてきただけに、「今年は暗闇だ」と内橋に聞かされた時には正直言って「次は水かまたまた火か」と滅茶苦茶な期待を勝手にしていた身としては正直言って「それはまた地味なことを」とも思った。
 さらに言えば完全暗転の真っ暗闇のなかでの演奏だったと聞く、プログラムAと比べても会場に入ってみると確かに周囲のすべてに暗幕が張られているため暗いことは暗いけれど、フロアの周囲を取り囲むように9つのモニターが置かれていて、それにうすぼんやりと映像のようなものが映し出されていて、それが照明代わりになっていたためにしばらくいて目が慣れてくるとうすぼんやりとではあるけれど、周囲の様子も自分以外の観客の陰も見えている。
 その意味では会場の設営自体には過去2回の「POOL」の時ほどの衝撃というのはなかったわけだが、パフォーマンスは素晴らしいものであった。会場の中央にはパソコンや機材などがセッティングされたブースがあってそこで内橋が演奏するのだが、フロアの周囲を取り囲むように9つのスピーカーとテレビモニターが置かれていて、そのすべてを内橋がたったひとりでリアルタイムでオペレーションしながら、演奏する。
 内橋がパソコン上で操っていたのがどうやら伊藤隆之の構築によるマルチムービングサウンドシステムで、覗き込んでみるとパソコンのモニターは4つに分割されていて、その上を黒いぼんやりとした円形の影のようなものが動きまわっていて、どういう風になっているのか詳しい理屈は分からないながら、パソコン上にペンスティック状のマウスを当てて、動かすとそれに黒い影が反応する。どうやら、その影と影の動きが実際に会場のなかでどのスピーカーにどれだけの音がその瞬間にでてるのかをあらわしているようなのだが、それを操ることでまるで演奏しているかのように自由自在に音の出る位置を動かすことが可能になる仕組みのようだ。
 これまでもエレクトロニカやノイズ系の音響を駆使するダンス公演やライブで会場全体を音場空間が取り巻いていて、自分がそのなかに放り込まれているような感覚を味わったことはあるけれど、今回のパフォーマンスはそれとも少し違って、少し暗い空間で音だけに集中して耳をすますと、それこそその空間のなかを音があるときは周囲をまわったり、あちこちを飛びまわっていうようにも感じる不思議な感覚があった。
 またこのシステムには周囲に置かれたテレビモニターも連動していて、ちょうどそれが暗闇のなかでは映像をそこで映すというだけではなく、発光体としての役割も果たして、今度は音に耳を傾けながらも、視線を周囲に向けてみると、音だけではなく、光もあちこちに走りまわっているようにも感じられる。
 パフォーマーとしてはこの公演には内橋以外に東野祥子も参加していて、冒頭から内橋の音楽に合わせて会場のあちらこちらを移動しながら即興でダンスを踊っていたのだが、面白かったのが後半の部分。前半では踊るといっても東野は照明としてはモニターの光だけの暗い空間のなかで踊っているので、そのプレゼンスというのはそれほどではなかった。しかし、後半になると突如、内橋がいるブースの後方の床面に照明のように見えるものが天井に設営された映写機から映し出される。しばらく見ていると、その方形に区切られた光のなかに東野が入って踊る時に床にはその東野の映像が映し出せていて、しかもそれはリアルタイムの映像だということも分かってくる。
 ここが面白かったのはその床に映し出された東野の映像がある時にはまるで万華鏡のように円状の図形をつくり、不思議な模様を見せだしたことで、それが千変万化に変化していくなかで、その踊る影たちと共演してるかのように東野が踊ることで、不思議な構図を見せていく。
 これはよほど複雑なプログラムで映像をリアルタイムで加工処理しているのかと思って、聞いてみたのだが、実はこれはまったくコンピューターなどは使っていないというのを聞かされてまた驚かされた。これを見ていて思い出したのがやはり踊るダンサーをリアルタイムで加工していたフィリップ・デュクフレの公演での映像で、あの時も確か、山口情報芸術センターのスタッフが入っていたなと改めて思い、終演後確かめたところ、「その時の公演で入ったのは別のスタッフだが、原理としては同じ」(伊藤隆之)ということだった。
 これはどういう仕組みかというとここではカメラで映像を映し、その映像をリアルタイムで床に映し出すわけだが、その映った映像を再びカメラが実物と同時にとらえるので、それが無限にフィードバックしていって、合わせ鏡みたいな現象が起こる、ということだった。この説明で一応、その場では納得したのだが、どうももう一度考え直してみるとよく分からなくなってきた*1(笑い)。そこで私が感じたのはとにかく理屈は分からないが「恐るべしYCAM」ということです(笑い)。
 さて、ここまで書かなかったが、そういういろんな要素はあってのこの日のパフォーマンスがよかったのは内橋の音楽・演奏が素晴らしかったから、これに尽きる。最近、いろんなパフォーマンスでオリジナルの音源で音を作ってくるなかで、聞いていて、どうも私はノイズやエレクトニカやもろもろのいわゆる尖った音楽が苦手なんじゃないかと思いだしていたところなのだが、当たり前のことだけれど好みはあるとしてもそれはジャンルじゃなくて、人だということが確認できた。

博士の異常な発明 (集英社文庫)

博士の異常な発明 (集英社文庫)

*1:その後気になってネット上で検索してみると原理を説明したページを発見http://www.fsinet.or.jp/~oncle/kazetachi/20031004.html

ポツドール「夢の城」のレビューhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060305を執筆。

 ポツドール「夢の城」をやっと執筆した。先月は舞台の当たり月でこのほかにも演劇だけでもシベリア少女鉄道五反田団(いずれも近く関西の公演がある)、2月にはなるが事実上の旗揚げ公演でもあった渡辺源四郎商店、ひさびさ再演の弘前劇場「職員室の午後」、公演自体がひさびさだったロマンチカとレビューを書かなくちゃいけないと考えている舞台が山積なのだが、なかなか思うにまかせない。もちろん、それ以外にダンスの公演もある。
 来週もけっこういろんな公演を見る予定なので、書かなきゃいけない公演はたまっていくばかりで思うにまかせないが、私の場合1本書くのにもけっこう時間がかかるということもあって、どしたらいいかなという感じなのである。それでも、昨日のチェルフィッチュに引き続き、ポツドールのレビューを仕上げたのでちょっと息はついているところだ。
 観劇の方では最近、関西の演劇の舞台をなかなか見にいけてないというジレンマもあって少し考えてしまっている。実は「あの人は関西の演劇には興味はないんだ。所詮、関西の人じゃないから」と言っている人がいるという話を人づてに最近聞いて、がっかりしたというか、ひどく落ち込んでしまったということがあったのだが、今年に入って観劇した舞台を見直して確認してみたら、ダンスはともかく演劇に関しては実際にすごく数が減っていることに気がついて愕然としてしまい、そんな風に思われても仕方ないかと思ってしまったのだ。
 そうこうしていたら、私が関西演劇に対する評価としては免罪符のようにここ数年、関西イチオシの劇団はここだといい続けてきたクロムモリブデンがサイトhttp://crome.jp/でオフィスを東京に移転すると発表しているしなあ。どちらかというと関西の演劇を見にいけてないのはその分、関西での観劇がダンスにシフトしてしまっているというのもあるのだけれど、そのなかには関西とか東京とかいう地域性と関係なく、現在の私にとってはつまらない(かもしれない)ダンスを見に行くリスクはおかせても、つまらない(かもしれない)演劇を見に行くのは苦痛であるということがある。
 そして、考えて気がついたのはダンスではつまらなかった(と思った)時にそれがなぜそうだったのかを話し合える知り合いが関西でもいるのだけれど、演劇には関西では完全な関係者以外の知人が少なくなってきていて、つまらないという苦痛をかかえたままとぼとぼと家路に急ぐことが多く、かといって本当につまらないと思った時にはその当該の舞台の関係者に声をかける気もしないので、全然知り合いが増えなくて、そのせいでまだ見たことがない劇団などでどこが面白いのかという情報もなかなか得られないという悪循環があるような気がしている。もう少し言えば以前には情報交換していた関西の知人も皆、寄る年波には勝てず、観劇量が減っているうえに見ているのは昔から付き合いのある古手の劇団ばかりでしだいにだれからも情報がえられなくなっているという問題もある(笑い)。
 もっともそれは一概に人のせいには出来ず、一番の問題は私の体力・気力が衰えて、つまらない芝居を見てしまった時の心身ともの消耗に耐えられなくなっていて、それでしだいに無難なものをまず選択するということになっていることがあるだろう。
 以前の経験則からしても、あまり評判になっていない知名度の低い集団のなかからこれはというものを見出すためにはその数倍、あるいはもっと極端に言えば十数倍いやもっと多い駄作の山と遭遇する勇気が必要なのである。
 ネットの情報というのももちろんあるのだけれど、最近は演劇としての新しさや確信犯としての悪意がないような普通に面白いという舞台を体質的に受け付けなくなっているからなあ。そうか、それって以前と比べて演劇自体が好きなわけじゃないってことかもしれない(
(笑い)。
 しかし、もとはといえばこのサイトの元になるサイト「下北沢通信」を始めた大きな動機のひとつにはそこにいて時間・空間を共有しないと分からないという演劇というメディアの特殊性をかんがみて、東京の人に知らない関西の舞台を、関西の人には知らない東京の舞台を紹介して、いつか旅公演などで見られる機会がえられたときにぜひ見にいってもらうためのきっかけを作りたい、ということがあったのだ。だから、東京にいた時は関西に、現在は東京に遠征して、舞台を見て、それぞれのレビューをサイトに書いてきた*1。だから、現在の時点で東京の舞台の紹介が多いのはたまたま私の感性に引っかかる集団が東京の方が多いというだけで、例えば「下北沢通信」をはじめたころ*2は完全に逆だったのである。
 その意味では今年のはじめに決意したのはこれまで見てない関西の若手劇団のなかから、ぜひとも私を震撼させるようなアンファンテリブルを見つけたいということだったのだが……。

*1:もちろん、一義的には自分が見たいからなのは言うまでもない

*2:遊気舎、惑星ピスタチオ、MONO、時空劇場、桃園会、上海太郎舞踏公司、犬の事ム所、クロムモリブデン、MOP、鈴江俊郎、劇団太陽族といった当時注目の集団を見るために関西へたびたび遠征を余儀なくされていた

佐々木愛個展「Inner Forest」

佐々木愛個展「Inner Forest」(CAS)を見る。

佐々木愛
1976年大阪府生まれ、大阪府在住。2001年金沢美術工芸大学美術学部卒業、2002年彩都IMI大学院スクール修了。家の歴史や逸話から人のもつ根源的な世界を探求。砂糖を使用した立体制作と壁面ぺインティングによって、家や船、山のイメージを作り出す。「キリンアートアワード2002」、「京都芸術センター2004」2005 「新公募展」広島市現代美術館、「Wild Girls' Lullaby」ARTZONE art project roomほか展覧会多数。

"NEXT"「アメリカンブルースフェスティバル テネシー・ウィリアムズ一幕劇集」

"NEXT"「アメリカンブルースフェスティバル テネシー・ウィリアムズ一幕劇集」(common cafe)*1を見る。

The Lady of Larkspur Lotion" - しらみとり夫人 -
"This Property Is Condemned" - 財産没収 -
"Auto-Da-Fe" - 火刑 -
"The Case of the Crushed Petunias" - 踏みにじられたペチュニア事件 -
 上田友子("NEXT")
 曽木亜古弥
 園本桂子
 希ノボリコ(コリボの木)
 宮川サキ(pinkish!)
 宇田尚純
 赤星マサノリ(劇団☆世界一団
 橋本健司(桃園会)
 信平エステベス(遊気舎)

 "NEXT"はそとばこまち出身の演出家・都木淳平と女優の上田友子によるプロデュースユニット。小劇場系の俳優を集めたプロデュース形式の公演で翻訳劇を現代の観客にも分かりやすく提供するというのが、このユニットの特色のようだが、公式サイト*2によるとこのところテネシー・ウィリアムズの短編戯曲を連続して上演しているようだ。今回がこの集団の公演を見るのは初めてだったのだが、けっこう面白く見ることができた。関西の劇団はどちらかというと劇作家主導型が多く、この集団のように演出家中心で翻訳劇を上演するというところは珍しい*3のでその意味でも注目したいユニットである。
 テネシー・ウィリアムズといえば「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」などで知られる米国を代表する劇作家で、上記の2本については小劇場系も含む複数の演出家の作品*4で見たことがあるし、文庫で出ていたほかの長編戯曲「夏と煙」「薔薇のいれずみ」「やけたトタン屋根の上の猫」も読んではいるが、この日上演された4本の作品は未読で上演を見たのも初めてであった。
 短編(一幕劇)ゆえに長編戯曲のような物語の展開はないが、興味深かったのは最初の2本「しらみとり夫人」「財産没収」には没落した家庭に育った女性が現実逃避からか、幻想を語るという「嘘をつく女」という「欲望という名の電車」のブランチを彷彿とさせるような人物造形がこの短編戯曲からすでにうかがえることだ。ただ、ここでは現実の方からの暴力的な力がその幻想を完全にぶちこわすことで、ヒロインが壊れてしまうというところまではいかないけれど。
 また、南部的な偽善により抑圧された性的欲望というのもテネシー・ウィリアムズが繰り返し描き出す主題であるが、それをコミカルかつシニカルに描き出したのが「火刑」で、軽いタッチで描いてはいるのだけれど、これもいかにもこの人らしい作品で面白かった。
 上演に関していえば戯曲からなんらかの解釈を引き出して、それを切り口にして演出するというよりは戯曲のストーリーラインを生かしながら、それを出演している役者それぞれの持ち味に引き付けて料理してみせるというのが、どうやら都木淳平の演出スタイルなようで、それがよくも悪くも "NEXT"のスタイルとなっているように感じた。
 そのため、おそらく翻訳劇などにはあまり慣れていないと思われる俳優中心のキャスティングであっても、例えば元惑星ピスタチオの宇田尚純にしても、遊気舎の信平エステベスにしてもいつもどおりの持ち味がうまく引き出されていて、楽しめるようになっている。特に
宇田尚純などは落ち着きがなく、というよりはまるで間寛平の止まると死ぬ人というギャグを彷彿とさせうように奇妙な動きを続ける姿はそれこそ抱腹絶倒ものであった。
 ただ、今回の舞台を見た時にそこに若干の不満がなくもない。これは演出ということだけではなく、プロデュースユニットの限界ということもひょっとしたら、あるのかもしれない。今回の舞台では役者陣はこれまでそれぞれの劇団での演技を何度も見ている人が多かったために余計にそう感じたのだが、それぞれの俳優の演技スタイルの方向性にあまりにもばらつきがあるため、"NEXT"という上演ユニットの演技の規範がどこにあるのかが、この公演を見ただけでは分かりにくかったのだ。
 メンバーである上田友子の演技スタイルから考えると通常の新劇におけるリアリズムとは演技の方法論はやや違っていても、役柄に合わせて作りこむタイプの演技が規範とも思われたが、演出がそれを客演の俳優にも厳しく要求しているとは思えないところもあって、そのあたりのアンバランスが少し気になった。
 実は今回の舞台を見ていて少し懐かしい気分になったのだが、それはそとばこまちの山西惇が演出した翻訳劇の舞台*5と印象が似ていたからだ。これはひょっとしたら、都木淳平が元そとばこまちだというのを聞いて知っていたので、そんな風に思ったのかもしれないが、あの時も原戯曲を生かしながらも当時いたそとばの個性的な役者に合わせて、自由に書き換えた*6舞台であったという記憶がある。ただ、あの時の山西の大胆にデフォルメされた演出は演劇スタイルにある程度共通性のある劇団であるからこそ可能だった、という気もするのである。
 個々の俳優の演技についてはおそらく俳優が変わればまた変わるということがあると思われるので現時点ではちょっと分からないところもある。今回は連作でもあるため、それぞれの戯曲のテイストに合わせてのことであったかもしれない。この企画は第1回で同じ会場で
第2弾、第3弾の上演があるということなので、なんとかスケジュールが調整できればほかの公演も見てみたい。
 

*1:http://www.talkin-about.com/cafelog/

*2:http://www.d1.dion.ne.jp/~nextatic/

*3:新劇を除けば既存の戯曲とオリジナルの2本立てだが、あえていえばエレベーター企画がやや近いスタイルだろうか

*4:最近見たのではク・ナウカ版の「欲望という名の電車」は斬新な演出で印象的。MODEの翻案による「ガラスの動物園」も面白かった

*5:記憶があいまいになっているが、そとばこまちインターナショナルのユニット名で上演されたのじゃなかったかと思う

*6:本当に戯曲をいじったという意味ではなく、人物キャラの設定などにおいて、場合によっては大胆に改変したという意味で

「イスラエル・コンテンポラリー・ダンス上映会」@アートシアターdB

イスラエルコンテンポラリー・ダンス上映会」(アートシアターdB
)を見る。

1.Emanuael Gat「THE RITE OF SPRING」*1
2.Anat Grigorio 「R.U.going somewhere …?」
3.Maya Levy「Hurdles」
4.Yossi Berg「Rabbit Habit」
5.Vertigo Dance Company「Power of human relation」「Birth of the Phoenix*2
6.Tami Dance Theatre Company「A Hotel in the View」*3
7.KOMBINA Dance Co. 「KHADIR」*4

浪花花形歌舞伎「浪華騒擾記 大塩平八郎」@大阪松竹座

浪花花形歌舞伎「浪華騒擾記 大塩平八郎大阪松竹座)を見る。
 昨年末せっかくチケットを確保していた南座顔見世興行を見損なったことから、年初に今年こそ歌舞伎をもっと見るぞ、と決意したのだが、新春歌舞伎もチケットがとれず見逃し、ようやく遅ればせながらの初歌舞伎である。実は11日に第1部から第3部まで続けてもう一度見る予定なので詳しい感想はその時にと思うが、一言で言えば新作ではあるが、これは楽しめた。特に片岡愛之助*1の充実ぶりには目をみはらせるものがあると思った。それと比較すると進之介はあれでいいのか(笑い)と思ってしまったが、どうなんでしょうか。新作なんでああいう解釈(大阪のアホぼん)なのかとも思ったが、いやそうではあるまい。でも、笑えたからいいか(苦笑)。

*1:それにしてもやはり仁左衛門に似ている。古典歌舞伎じゃないのにこれだけ似てるというのはどういうわけか。血縁関係はないはずだが。

西天満ギャラリー巡り

西天満ギャラリー巡り。ギャラリーwks.、Oギャラリーeyes、白、天野画廊、シティーギャラリーと急ぎ足でまわるが、ギャラリーwrks*1の展示「trigger:wnao exhibition」*2が面白かった。簡単に言えば携帯写真で撮影したスナップショットによる写真展ということなのだが、携帯からプリントアウトした写真プリントとそれを拡大カラーコピーしたものさらにそのコピーを何枚かに分割して拡大コピーしたものがそれぞれ展示してある。携帯写真がこれだけ普及してくるなかで、以前からプロの写真家で携帯写真の作品を発表する人が現れないだろうかと思って、秘かに注目していたのだが、ついに出てきたという感じである。もっとも、この作家は写真家というわけではなくて、本来は映像作家らしい。もちろん、携帯写真の画素数が上がってきているといっても、写真展のような形で引き伸ばして展示するにはまだまだ画面が粗いわけだが、この展示ではそれを逆手にとって、拡大コピーすることでその画面の粗さとかも逆に作品の質感の独特な面白さに転化しているというところのセンスはなかなかのものである。さらに言えば詳しいことは不明だが、この拡大コピーというのは今ではコンビニでも簡単に出来るらしいので、まさに「コロンブスの卵」というか、手間もコストもおそらく普通の写真よりは全然かからないはず。それで、これだけのちょっと「おっ」と思わせる展示ができてるというのはある意味すごいことだと思った。

演劇ユニットYOU企画「ジュリエット-Juliet Capulet-」@アートコンプレックス1928

演劇ユニットYOU企画「ジュリエット-Juliet Capulet-」(アートコンプレックス1928)を見る。

原作: ウィリアム・シェイクスピア
脚本: クスキユウ
演出: 松浦友
出演: 朝倉詩(ニットキャップシアター)/大西由希子/木村千鶴(劇団ひぃふぅみぃ)
古雅夏樹/氏田敦(劇団冬芽舎)/ 田之室かおり/中武題
広田ゆうみ(小さなもうひとつの場所)/ 福島美紀(劇団EBIE/俳優練体会)
福山香織/松井千恵/山本周 
コーラス: 京響市民合唱団

総合プロデュ―ス YOU-PROJECT

 演劇ユニットYOU企画*1は京都芸術センターアートコーデイネーターを務めた松浦友によるプロデュースユニット。表題から分かるとおりにウィリアム・シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」から題材をとって、テキストを引用しながら、自由に再構成した作品。この作品では「ロミオとジュリエット」の物語からジュリエットと彼女の家族(キュピレット家)だけに焦点をあてた。そのためジュリエットを6人の女優(古雅夏樹、松井千恵、木村千鶴、田之室かおり、福山香織、広田ゆうみ)が演じる。その代わり、ロミオをはじめとするモンタギュー家の人間はいっさい舞台上には登場しない。
 この舞台が見ていて見飽きなかったのはこのジュリエットたちの演技ならびに存在感がなかなかよかったからだ。一連の台詞を別々の女優が引き継いでいうというやり方は簡単なようで実は相当に難しい。下手をすると学芸会でよくあるような割台詞になってしまいかねないところをうまくコントロールして、あるところはまるでコロスのように聞こえたり、ある場面では内面の声と実際の会話の同時進行のように聞こえたりとなかなか面白い効果がここから生まれてきていた。
 最近、関西の若手劇団の公演をあまり見てないせいもあって、だれがだれなのかが分からないのが残念であるが、なかにはこの人はうまい、実力があると思わせる人や技術という面ではまだまだだけれど新鮮な魅力を感じた人もいた。
 ただ、「ロミオとジュリエット」の劇化という意味ではいくつかの問題点もあった*2。せっかく俳優がいい演技をしているのにどうしてこういうことをしたがるのと思い、頭をかかえそうになったのはこの物語にどういう理由でだか不明だが、朝鮮半島の問題とか、それを含めた分断国家の問題とか、拉致問題とかを無理やり幕間狂言のような場面を挿入して取り込もうとしていたことだ。これはまったく必要なかった。
 シェイクスピアの現代的解釈ではこういう風に現代の問題と重ね合わせたりするということをよくやるのだけれど、「ロミオとジュリエット」ではそういう小ざかしい解釈を入れた舞台はこれまで見た限り、ほとんど失敗していた。というのはそもそも現代的解釈を入れようにもシェイクスピアが初演した時点ですでにこの物語は昔のヴェローナ(イタリア)だからありえたかもしれない古典的な構造を持つ悲劇だったからだ。さらにいうなら、そういう政治的な解釈でこの作品を構想するのであれば、すなわち、そちらの方が今回の上演に際して訴えたかった主題なのだとすれば今回のキュピレット側だけを取り上げるというやりかたは逆効果である、としかいいようがない。特に最後の方で「アメイジンググレイス」を生歌でいれる演出。いくらなんでもこれはないよ、と思ってしまった。
 もうひとつ気になり、最初一瞬なにか勘違いしてるんじゃないかと思ったほど、激しい違和感を感じたのは、この舞台では原作においてジュリエットの乳母が担うべき台詞・役割をキュピレット夫人が担っていたことだ。家族に絞り込むという理由から乳母の存在を削ったのかもしれないが、これはいくらなんでも無理があったのではないか。キュピレット夫人は確かに原作においては旦那べったりで、いったいどういう人なのかがなかなか見えてこないというところがある人ではあるのだけれど、いくらなんでもジュリエットの言いなりになって、敵対するロミオとの取次ぎなんかはしないのではないか。戯曲の再構成のやり方と演出に面白いところがあった舞台だっただけにそういう点が残念だった。

*1:http://www.you-project.com/

*2:申し訳ないがシェイクスピアということになるとどうしても見方が厳しくなってしまう

大槻能楽堂自主公演「隅田川」@大槻能楽堂

大槻能楽堂自主公演「隅田川」大槻能楽堂)を見る。

狂言佐渡狐」 
善竹隆司 善竹忠一郎 善竹隆平
能「隅田川」 
シテ 山本順之 子方 赤松裕一 ワキ 植田隆之亮 ワキツレ 山本順三

 今年は古典ももっと積極的に見てみようと年初に誓ったと書いたが、歌舞伎に続いて古典シリーズ第2弾。能と狂言である。「隅田川」は世阿弥の息子で天才といわれた観世元雅の作品。能というといわゆる複式夢幻能*1に代表されるような複雑な形式が作劇におけるジャンルの1つの特徴となっているのだが、これは「現在能」。最後の場面で梅若丸の亡霊(子方が演じる)が現れることは現れるのだが、これはハムレットにおける父王の亡霊同様にかどかわされて、失われた我が子を求めに求めて、物狂いとなった母の妄執が見せる幻影のようなものと考えることも可能な存在のために複式夢幻能に登場する憑依する存在である亡霊たちとはまったく違ったあり方の存在だと考えることもでき、その意味では様式的に処理された古典劇である能のなかではとっつきやすい作品ということもできるかもしれない。
 さらに子を思う母の気持ちという普遍的な主題を取り上げているせいもあってか、英国の作曲家ブリテンがこれを翻案した「カーリュー・リバー」というオペラを創作したことでも知られている。そういえば、私が行った時にはすでに終了していたが、昨年のエジンバラ国際フェスティバルのオープニング*2がこの能「隅田川」と狂言「蝸牛」のミックスプログラムで、ほぼ同時期にオペラ「カーリュー・リバー」を上演していたのを思い出した。
 「カーリュー・リバー」がどのような作品となっているのかは残念ながら、見たことがないので分からないのだが、西洋の作曲家がこの作品を見て翻案してみようかと考えた理由は分かるような気がした。「隅田川」は劇構造が非常にシンプルでギリシア悲劇を思わせるようなところもあり、また上演を見て思ったのはその構造のシンプルさゆえに能が音楽劇であるということの魅力がストレートに体現されているからだ。能のことには詳しくはないが、この日シテをつとめた決して張り上げたりしている感じはないのに途中で語り的なフレーズから詞華の引用のような唄うようになるところ*3で山本順之は声がすばらしくて、思わず聞き惚れてしまった。
 ただ、残念だったのは大槻能楽堂の場合、正面の席が予約席となっているために、当日券だった今回はサイドの方から見ていたのだけれど、その位置からだと能を見慣れていない私には面づかいをはじめ、細かい身体所作が見えにくかったこと。次回は予約して見ることにしよう。
 そういえば、今回の公演とは直接関係はないけれど、「隅田川」をネット検索していたら、芥川龍之介のこのような文章*4を見つけた。昔、初めて能楽堂にいって私も思ったことと同じことを最後に書いてたので思わず笑ってしまった。

*1:複式夢幻能とは、世阿弥が完成させた能の形式で、前半と後半に分かれ、前半を前場、後半を後場といい、前場のシテ(主人公)を前シテ、後場のシテを後シテという。前シテと後シテは同一人物の亡霊であるが、前場では土地の人間に憑依して現れ、後場では生きていた頃の姿で、ワキ(脇役のことで、旅の僧のことが多い)の夢の中に現れる。この複式夢幻能を成立させる一番大切な条件は、生きている人と死んだ人との魂の会話だという。

*2:http://www.eif.co.uk/E22_Sumidagawa_The_Madwoman_at_the_Sumida_River_Kagyu_The_Snail_.php

*3:オペラに例えたらレチタティーヴォとアリアの違いのようなのを感じたのだが、能楽の世界でどう呼ばれているのかは勉強不足で不明

*4:http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/1134_6760.html

ピナ・バウシュ&ヴッパタール舞踊団「カフェ・ミュラー」「春の祭典」@国立劇場

ピナ・バウシュ&ヴッパタール舞踊団「カフェ・ミュラー」「春の祭典国立劇場)を見る。
 以前から一度生で見たかったピナの代表作の2本立て。もう少し詳しくこの作品がどうだったのかについて考えてみたいところだが、「カフェ・ミュラー」は花粉症のためにあまりに体調が悪すぎたせいで、いまひとつ作品に入り込めなかった。だが、「春の祭典」は凄いの一言。この体調をもってしてもその迫力に圧倒された。全然古びていない。というかもはやスタイルの古さとか新しさとはそういう次元を超えてダンス作品の古典として屹立している、と思った。この作品はピナがいわゆるタンツ・テアトルという演劇的な手法を取り入れた独自のダンススタイルを取る以前の作品であり、スタイル的にいえばモダンダンスないし、ノイエタンツの匂いが色濃く感じられる作品だが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」のもつ音楽の脈動(リズム)を群舞に置き換えた構成が本当にみごとというしかない。
 

「アンリ・カルティエ=ブレッソン展」@サントリーミュージアム

アンリ・カルティエ=ブレッソン展」サントリーミュージアム)を見る。
 アンリ・カルティエ=ブレッソンの個展は大阪芸術大学がコレクションを所蔵しているらしく、関西では何度か開催されているらしいが、私が見るのは初めて。ただ、昨年夏にエジンバラにいった時にディーン・ギャラリーで開催されている大規模な回顧展を見たことはあった。
 もちろん、有名な作品とかは重複しているのだが、その時とはやや展示の方法(分類とか並べ方とか)が違っていたことやエジンバラでは見られない作品を見ることができて新鮮な気持ちで見られた。
 写真について興味を持って見始めたのは最近のことなので、写真の中身についてあれこれいうほどの知識も見識もないが、こういう大規模な回顧展というのはその作家の力量や写真へのアプローチの仕方をはっきりと示してくれて、非常に刺激的である。
 ただ、エジンバラではあまりに展示の規模が大きすぎて正直言って疲れてしまったのだが、今回はそこまではいかなくて、分量としてはこのぐらいが適当であろうか。
 最後に出口に近いところでテレビモニターで流していたドキュメンタリーの抜粋が面白かったのだが、どうやらこれは5月後半あたりに大阪でも梅田ガーデンシネマで上映されるみたいで、これはぜひ行かなくちゃと思う。

シンガポール武道家一族:空手家探し青森の雪山へ

 4月のお薦め芝居(http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/10000604)を執筆。
シンガポール道家一族:空手家探し青森の雪山へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060405-00000124-mai-soci
 青森県西目屋村白神山地近くで4日夜、シンガポールから来日した中国系武道家一族ら13人のうち男性3人が雪道に迷い、5日未明に県警弘前署に保護された。一行はシンガポールで道場を経営していた武道家の遺族らで「青森の山中で修行する空手の伝承者に会えとの遺言を受け、伝承者を探しているうちに道に迷った」と説明しているという。
 同署などによると、13人は5年前に病死した武道家の妻(50)と息子2人、近所の人10人。3月22日に来日し、4日朝から3人ずつ3班に分かれて伝承者を探していた。残る4人は寒さで体調を崩し、ホテルに残っていた。
 武道家の長男を含む第1班は登山道に向かって歩き続けたが、午後7時ごろになって仲間の携帯電話に「雪で進めない。道に迷った」と連絡。仲間が地元観光協会の通訳とともに弘前署に届け出て、約6時間後に救出された。3人は畑にあった廃車に入って寒さをしのぎ、けがはなかった。
 事情を聴いたところ、亡くなった武道家シンガポールで空手などを教えていた。しかし、2人の息子は武道に興味がなく、道場にあった「空手の秘伝書」も弟子の一人に盗まれてしまった。後継ぎ問題に苦慮した武道家は死の間際、「青森県の相馬村に極真空手の伝承者がいる。彼に会い、秘伝書を譲り受けてほしい」と遺言したという。
 相馬村(合併で現在は弘前市)は一行が道に迷った西目屋村から東に約5キロの場所にある。
 極真空手県本部の池田治樹支部長は「旧相馬村に道場はない。空手家がいると聞いたこともない」と困惑しているが、13人のうち11人は当分の間青森に残り、武道家探しを続けたいという。地元観光協会も「全力で手助けしたい」と支援を申し出ている。【喜浦遊】
毎日新聞) -

 思わず笑ってしまいましたが、これってなに、本当に本当て感じですね。「青森の山中で修行する空手の伝承者に会えとの遺言」って……。面白すぎる。ぜひ、畑澤聖悟さんに取材してもらって芝居にしてほしいです(笑い)。恐るべし青森、恐るべしシンガポール

トリのマーク「ルシル・ライン」

トリのマーク「ルシル・ライン」*1ザ・スズナリ)を見る。

トリのマーク(通称)「ルシル・ライン」
台詞・演出 山中正哉
出演 柳澤明子 櫻井拓見 原田優理子 丹保あずさ 西川健一郎 渋谷太樹 山中正哉


 昨年7月のやはりザ・スズナリ「ザディグ・カメラ」*2以来ひさびさに見るトリのマークの公演であった。トリのマークという一風変わった集団の特徴はその活動範囲を演劇の範疇だけにおさめて考えているとその全貌がとらえられないことであって、例えば少し昔の記事になるがここ*3に書いた独自のスタイルの野外劇。これなどはその行為を最終的に野外で舞台を上演するというその時点に限っていえば少し変わった演劇にすぎないが、トリのマークの場合はそこに至るまでの、この場合だったら、受け入れ先の荒川の子ども劇場のお母さんたちと協力して場所探しを開始する時点からすでにアートとしての作品であって、その意味では現代美術の世界でいうコミュニティアートに近いコンセプトを持っているのである。
 ここ最近、特にアサヒアートフェスティバルなどの現代美術系が中心ともいえるフェスティバルに参加するようになり、ワークショップや地元の人との協力によってリーディング作品を作ることなどが多くなり、その傾向はますますはっきりしてきた。以前から演劇のフィールドのなかだけでは認められにくいと考えていたので、こういう風に活動形態が変化してきたことはある意味喜ばしいことだと思っているのだが、その分、この集団のもうひとつの特徴である、作演出を務める山中正哉の世界観がはっきりと前面に出てくる作家性の部分はやや薄まってきている感があり、それがやや物足りないということもあった。
 

A級Missing Link「決定的な失策に補償などありはしない」

A級Missing Link「決定的な失策に補償などありはしない」ウィングフィールド)を見る。
 最近関西の若手劇団の芝居をあまり見ていないと以前に書いたが、とりあえず未見の関西若手劇団を月に最低ひとつは観劇して、そのレビューを書くことにしたいと思う。その第1弾が「A級Missing Link」。土橋淳志が主宰するこの集団は、近畿大学の学生劇団を母体として2000年に旗揚げ。今年が5年目というわけなので、若手といえるかどうか若干微妙だが、とにかく私にとっては初観劇となった。
 実はこれまで最初の観劇ではあまり本格的なレビューとしては取り上げないことが多かったのだが、それはひとつにはその集団がいつもこうなのか、それとも今回に限ってそうなのかが、その舞台からでは分からないからだ。結論からいえば、今回見たA級Missing Linkの舞台「決定的な失策に補償などありはしない」は相当に面白かった。それは舞台の構成が非常に凝ったもので、そこでは一種「だまし絵」的な演劇が展開されたからだ。
 冒頭、ある部屋で男(林智宏)と女(結城佳世子)が言い争っている。どうやら、2人で芝居を共同創作しているようなのだが、題名について男と女の言う事が食い違い、男は「プレスチック・ソウル」といい、女は「決定的な失策に補償などありはしない」といい互いに譲らないところから物語はスタートする(物語A)。
 この後、暗転をはさんで舞台は一変、今度は自傷癖のある女子大生を巡っての写真部の合宿の話(物語B)と売れないお笑い芸人とそれを助けようとする姉妹の物語(物語C)、解散した劇団の仲間がひさしぶりに集まってくる物語(物語D)が交互に並行して展開していく。それぞれまったく関係のなさそうな物語だが、しばらく芝居を見ているとどうやら、後から展開している3つの物語(B、C、D)は実は最初に登場した人物が書いた戯曲に書かれた物語で、どうやら、全体が「劇中劇」の構造を取るメタシアターの形になっていることが分かってくる。
 つまり、ここではAがB、C、Dのメタレベルにある、一応、そういう風に思わせる形で舞台は進行していく。ところで、さらにAには仕掛けがあって、実は最初に出てきた2人の人物のうち女(結城)は幽霊で、男はその幽霊に憑かれて戯曲を代わりに口述筆記の形で書き上げてげていることが分かってくる。
 ところがさらに物語が進行すると奇妙なことが分かる。その戯曲を書いている女というのは物語Cに登場する劇団の劇作家で、その女が戯曲を仲間に送りつけてきているだということが分かってくるからだ。
 ここまでならばメタシアターとしての手法もよくあるものといえるが、この「決定的な失策に補償などありはしない」が面白いのはここからだ。作者はここで記述による自己言及のパラドックスのようなものをこの芝居のなかに滑り込ませるのだ。
 この舞台では特に後半、物語Dを中心にして展開していくようになるのだが、ここに登場する登場人物が「戯曲」の正体を怪しく思い、それを探りはじめる。そうすると今度はその送られてきた戯曲というのは物語Dのなかの人物のひとり(橋本博也)が書いたもので、実は冒頭に登場した人物はその偽の作者が創造した虚構なのだということになってくるのだ。
 その証拠として林智宏(はやし・ともひろ)は橋本博也(はしもと・ひろや)のアナグラム(綴り替え)であることが指摘され、さらに劇中でその戯曲が上演されたと思わせる橋本博也プロデュース「プラスチック・ソウル」という公演のカーテンコールの場面さえ演じられる。
 つまり、ここまでのところでいつのまにか地と図が逆転して、この物語は橋本博也が書いた芝居の劇中劇にすりかわってしまうのだ。(ここではDがA、B、Cのメタレベルにあるということになる)。 
 ところがこの芝居がさらに面白いのは舞台がここで終わるわけではなくて、さらに続き、最後に幽霊である結城佳世子が舞台に登場したままで、そこに作者である土橋淳志が自ら登場して、「これで終わりだ」と宣言して初めて終わりとなるところだ。つまり、ここにおいて、「幽霊がいて、戯曲を書いたという話」と「幽霊はいなくて、登場人物のひとりが戯曲を書いた」というこの物語に対する2つの読み取りはそれが相容れないものなのにもかかわらずどちらが正しいということが物語の構造のなかだけでは一意には確定できないような構造にこの戯曲は作られているのだ。
 こういう構造をきっちりと作り上げながら内部で矛盾が生じないようにするためには相当な緻密さが必要で、そうした矛盾に目をつぶって、最後に紙ふぶきを降らせたりして、勢いで見せてしまうような舞台はこれまでもあったが(笑い)、これほどのストイシズムでもって「だまし絵*1」を作り上げたことは評価に値すると思う。
 実はこの仕掛けがあまりにみごとだったので、ひょっとしたらと思って、作者である「土橋淳志(つちはし・あつし?)」の名前が橋本博也(はしもと・ひろや)か結城佳世子(ゆうき・ちかこ)のアナグラムになっているんじゃないかと思わず調べてしまったのだが、いくらなんでもそういうことはなかったようだ(笑い)。
 最初に「いつもこうなのか、それとも今回に限ってそうなのか」と書いたのはこういう凝った構造が確信犯として毎回用意されているのだとすればシベリア少女鉄道ほどの派手さはないにしても「この集団でしかできない」売り物になるんじゃないかと思ってそう書いたのだが、実際はどうなのだろうか。
 
 

 

*1:この芝居にはどうものような反転図形を連想させるようなところがある

東京バレエ「ディアギレフ・プログラム」

東京バレエ「ディアギレフ・プログラム」フェスティバルホール)を見る。

◆主な配役◆

牧神の午後 振付・ヴァツラフ・ニジンスキー 音楽・クロード・ドビュッシー
牧神:首藤康之 ニンフ:井脇幸江
薔薇の精 振付・ミハイル・フォーキン 音楽・カール・マリア・フォン・ウェーバー
薔薇:木村和夫 少女:吉岡美佳
ペトルーシュカ 振付・ミハイル・フォーキン 音楽・イゴーリ・ストラヴィンスキー
ペトルーシュカ首藤康之 バレリーナ:小出領子 ムーア人:後藤晴雄 シャルラタン:高岸直樹

アレクサンドル・ソトニコフ
関西フィルハーモニー管弦楽団

 東京バレエの「ディアギレフ=ベジャール」のうちの「ディアギレフ・プロ」。本当はこの次の日に「ベジャール・プロ」を見る予定で、これが合わさって1つのプログラムという感じなので、こちらは前哨戦という趣きもあったのだが、結局、風邪で「ベジャール・プロ」の方は見られず。せっかく、ひさしぶりのバレエ観劇だったのに……。
 この日は「ディアギレフ・プログラム」の表題通りにディアギレフが率いたバレエ・リュス(ロシアバレエ団)のレパートリーのなかから、3本を選んだトリプル・ビルの公演。
 「牧神の午後」は先日、マリー・シュイナールによるコンテンポラリー版を見たばかりで、あれもずいぶん変な振付で思わず笑ってしまったが、冷静になって考えてみればこのニジンスキーによる原典版からして、なんとも変な振付である。コンセプトは一言で言えばエジプトの壁画の立体版。つまり、エジプトの壁画を見たことがある人は思いだしてほしいのだが、あれって顔と手足が横を向いているのに身体が正面を向いている。ニジンスキーはあれを舞台上でやれせているのだが、そのせいで舞台に登場してくるダンサー(ニンフたち)は普通に歩いたりすることができず、両足を少しづつずらしながら、蟹歩きみたいにしてでてくるのだけれど、その間も身体だけは横向きではなくてずっと舞台正面を向いていて、それが左右に3人づつグループで移動していく。これはなにかを思い出させると思って考えていたのだが、分かった。インベーダーゲームのインベーダーそっくりなのだ。
 ニジンスキーの評伝などを読んでみると、この作品で跳躍の高さで知られたニジンスキーがいっさいジャンプをせずにしかも、牧神に扮して自慰行為ととれるような演技を行ったのが良識派の観客の激しい反発を買ったが、このことによりニジンスキーはダンス芸術の可能性を広げることに成功したなんという風に描かれていることが多いのだが、実際のところどうだったんだろうか。この日の上演がどの程度、ニジンスキーの原振付を忠実に再現しているのかも不明なので、断言はしにくいところだが、この振付にしても、黒白まだらのビーグル犬のような衣装にしても、かなり馬鹿馬鹿しいのではないだろうか。私はなんだこりゃと思ってそのバカダンスとしてのアバンギャルドさに思わず笑ってしまったのだけれど、どうもこういうことを考える人というのは芸術家というのとは違うタイプの表現者だという気がする。この人晩年狂気に陥ったせいで、どうも必要以上に神格化されてしまっているというところがあるんじゃないか、という風に考えたのである。
 残りの2作品はバレエリュスを代表する振付家であるフォーキンの振付作品だが、こちらの方はフォーキンの作家性というよりは職人としての腕の確かさを感じさせられる作品である。というのはこういう風に続けて見てみると、「薔薇の精」も「ペトルーシュカ」もいずれもタイトルロールを踊ったスターダンサー、ニジンスキー*1へのあてがきじゃないかと思わせるところがあるからだ。
 「薔薇の精」も一応、表向きはフランスの詩人テオフィル・ゴーティエの「わたしは薔薇の精、昨晩の舞踏会にあなたが連れていってくれた」の詩句が原作で舞踏会から戻った少女と、薔薇の精のまどろみの夢幻の物語、ということになってるけれど、どう考えても「牧神の午後」と甲乙つけがたいほどにこのモチーフは露骨に性的寓意を色濃く含んでるよね。
 ということからすれば少女というにはあまりに艶かしい感じのした吉岡美佳はよかったといえるのだけれど、バランスからいえば木村和夫の薔薇の精はもう少し色気が必要だったかもしれない。「ペトルーシュカ」では小出領子のバレリーナがなんとも可愛らしくてよかった。初めて見たダンサーだが、他の作品でも見てみたい。

*1:初演は薔薇の精をニジンスキー、少女をカルサーヴィナが演じた。ペトルーシュカも初演はニジンスキーが演じた。

風邪で倒れる

 風邪のための高熱で倒れる。毎年、この季節は体質的に風邪を引きやすく、今年は一度11日に熱が出たが、その日が平日休みだったので病院で点滴を受けた後、1日中安静にして、熱を下げ、ようやく大丈夫かと思ったら、この始末である。風邪引かないように引いたら無理しないようにと注意していただけに歯がゆい思いでいっぱいである。本当はバレエ(東京バレエ「ベジャール・プログラム」)を見に行く予定だったのに。がっかりである。

Vincent Sekwati Mantsoe ソロダンス公演「NTU」「PHOKWANE」

Vincent Sekwati Mantsoe ソロダンス公演「NTU」「PHOKWANE」近畿大学会館)を見る。
 一昨年(2004年)に京都芸術センターでのソロ公演*1を見て以来のVincent Sekwati Mantsoeのソロダンス公演である。以前の感想として「アフリカのコンテンポラリーダンスというのは欧米では最近、注目を集めているせいもあって、幾度か目にする機会はあるのだが、たいていは彼らがよって立つ文化的な背景を共有できないせいもあって正直いってピンとこないことが多いのだが、ヴィンセントのダンスはそういうなかにあって、彼独特のショーマンシップと強靭な肉体を前面に出してのリズム感に溢れたダンスであることもあって、分かりやすく面白い」と書いたのだが、今回上演した2本の作品もそういうヴィンセントの個性がうまく発揮された作品であった。
 コンテンポラリーダンスというジャンルにはもちろんコンテンポラリーというのに恥じない、現代の切り取り方とかダンスという制度性の解体とか、そういうコンセプチャルな面白さはあるのだけれど、ヴィンセントの舞台にはもう少し根源的なダンスそのものの魅力に満ちている。
 彼の作品にはルーツである南アフリカのアフリカンダンスの要素は色濃く入ってるのだけれど、ヨーロッパ(特にフランス)を拠点として活動していることから、それ以外の現代的な要素(いわゆるコンテンポラリーのテクニック)やそうじゃない要素(例えばムーブメントにおいて、武道やアフリカ起源ではない民族舞踊=おそらく、アジアのどこかと思われる)も入り込んだ一種のアマルガムといってもいいところもあり、伝統的なアフリカのダンスとは明らかに異なるものだ。
 ところがそういうさまざまな要素を取り込んだ上で踊られるダンスは欧州風のコンテンポラリーダンスともアメリカンモダンダンスとも異なるものでオリエンタリズムの思考に取り込まれることは警戒しなければいけないが、私の目にはやはりアフリカの匂いが強く感じられる。そこのところが面白い。
 この人の踊るダンスを見ていると同じコンテンポラリーダンスであっても、最近日本で創作されている多くの作品とのあまりのベクトルの違いにちょっと呆然とさせられる。この人のダンスはこの人が持つ天性の資質に加えて、鍛えられた強靭な肉体から立ち上がるものであって、しかもただダンサーとして鍛え上げられているとか、テクニックがあるなどということを超えてVincentという個人が持つスピリチャルな部分も含めた固有性と切り離せない。
 そして、それは固有性というだけではなくて、どこかアフリカの刻印を背負っている。同じ黒人ダンサーでも彼の身のこなしにはアフリカ系アメリカ人とはまったく異なる身体性が感じられる。そしてもっと大事なのはそれが踊られる時に理屈じゃなく、美しいのだ。
 どうも抽象的な表現にばかりなって書いていてもどかしいこと、このうえないのだが、まさに百聞は一見にしかず。舞台に登場して、少し動いてみせる。それだけで、ほとんどこれまでダンスの公演を見たこともないような人にも「こいつはただものじゃない」ということを感じさせるオーラがヴィンセントにはあるのだ。
 

ジョン・ル・カレ「ナイロビの蜂」を読了

ナイロビの蜂〈上〉 (集英社文庫)

ナイロビの蜂〈上〉 (集英社文庫)

ナイロビの蜂〈下〉 (集英社文庫)

ナイロビの蜂〈下〉 (集英社文庫)

パリ・オペラ座「白鳥の湖」

パリ・オペラ座白鳥の湖(上野・東京文化会館)を見る。

・オデット/オディール:マリ=アニエス・ジロ
・王子:ジョゼ・マルティネス
・ロットバルト:カール・パケット

今回の東京行きの目的は少年王者舘・夕沈ダンスの観劇だったので、最初は見る予定ではなかったのだけれど、先日の風邪で東京バレエ「ベジャール・プロ」を見逃したので、どうしてもバレエが見たいと禁断症状におそわれて、大枚をはたいて当日券をゲット。ひさびさの本格的なクラシックバレエの観劇となった。
 パリ・オペラ座の「白鳥の湖」はビデオで以前にピエトラガラの主演のを見たことがあるのだけれど、それはプルノンヴィル版で今回はそれとは違うルドルフ・ヌレエフの振付のバージョン。
 まずはなんといってもオデット/オディールのマリ=アニエス・ジロだが、オデットに関してはやや疑問符。もともと、大柄なダンサーで、肩の線などでも筋肉が目立つほどたくましいので、なんか優雅というよりはたくましく凶暴な白鳥という感じなのである。これまで彼女のダンスは何度かガラ公演では見たことがあるのだけれど、強靭な身体と高い運動能力によるダイナミックで切れ味のあるダンスが持ち味という気がしていて、オデットのような抑えたなかに優雅な情感を出していくようなダンスはどうなんだろうと注目して見てみたのだが、どうもピンとこない感じなのである。この日は相手役がジョゼ・マルティネスでいかにも弱弱しいキャラなので、マリ=アニエス・ジロの強い女ぶりが余計に目立ってしまう。
 ただ、だからこそというか2幕のオディールは素晴らしかった。いかにも挑発的なオディールで、ジークフリート王子を翻弄する魅力に溢れていた。ここではマルティネスの持ち味である色男だけど、なんとも優柔不断な感じのするキャラクターが実にはまり役になっていて、最後に床に倒れこんでしまうところなどもう抜群。
 さて、今回のもうけ役だったのはロットバルトのカール・パケットである。実は初めて見るダンサーなのだが、こういうのがまた出てきたというのがパリオペラ座おそるべしである。もともと、ヌレエフ版の「白鳥の湖」の最大の特徴というのはオデット/オディールの1人2役だけではなく、ロットバルト役のダンサーが一幕では家庭教師の役を演じ、さらにこの役がいわばメンターのように王子を導くとともに誘惑するという従来のバージョンよりも重要な役割を果たしている。
 そして、この役の持つ妖しげな悪の魅力をみごとに体現してみせたカール・パケットはここでは存在感で完全にジークフリート王子を食ってしまっているぐらいカッコよかったのである。この人なぜか異常に2枚目なのだが、どうもこのキャラはいわゆるクラシックバレエでいうダンスールノーブルとは違う魅力で、それゆえ、現在プレミエ・ダンスールであるパケットがエトワールになれるのかというのはちょっと微妙なところがあるかもしれないけれど、とにかく、今回はよくて、最終幕などそのせいで「頑張れロットバルト」と声援したくなってしまったほどだ(笑い)。
 そういう点からすればこのヌレエフ版は結末が珍しくロットバルト完全勝利バージョンなので、最後、情けなく床にくず折れたままのジークフリートを尻目に高らかに勝利を宣言するロットバルトという今回のヌレエフの解釈にはこのキャストは抜群のはまりようだったかもしれない。
 ところで、「白鳥の湖」ということで、主役以上に白鳥の群舞(コール・ド・バレエ)も見ものなわけだが、こちらは思わず笑ってしまったよ。よくいえばパワフルかつダイナミックといえなくもないが、この人たちは合わせる気があるのと疑問に思うほど自由奔放、勝手きままな群舞にあぜんとさせられたのである。しかも、足音ももの凄くて、ドタドタいっているものだから……思わず水面を優雅に泳ぐ白鳥も水面下ではもの凄い力で足をかいているという何かの例えを思い出したのだけれど、そういうことを表現したかったわけじゃないよね
(笑い)。
 このコールド・バレエに関してはネット上の感想などで完璧なコール・ドなどと書いている人もいて、どういうこと?って疑心暗鬼にとらわれているのだけれど、こんな風に乱れていたのはこの日だけってこと? この日見た限りではそんな風には思えなかったけれど。というのはこれは技術的に下手でこうなってるわけじゃなくて、それぞれが勝手にソリストみたいに踊ってしまった結果こうなったという風に思われたからだ。そもそも、ポーズとってる白鳥にしてもよく見るとロシアや日本のバレエ団と比べると腕の角度とか微妙に皆違っていて、よく言えば個性的なんだけれど、やはり、そこでそうだとせっかく、プティパ/イワノフが苦心した幾何学美が台無しになってしまっていると思えたのだが、どうなんだろうか。
 
 

「私のいる場所-新進作家展Vol.4ゼロ年時代の写真論」@東京都写真美術館

「私のいる場所-新進作家展Vol.4ゼロ年時代の写真論」東京都写真美術館*1)を見る。
 日本および海外で、2000年以降に頭角をあらわしてきた若手・中堅作家のうち、 7カ国から15作家/グループを取り上げ、写真映像の新たな可能性や価値観を問いかける展覧会、というのだがその15作家のなかに現代美術家の塩田千春がインスタレーションで参加していたり、みうらじゅんが入っていたりするキュレーションが面白い。
 塩田千春の作品は区切られた小部屋の壁にぎっしりと顔写真が貼ってあり、中央に小屋状に組んだ木組みと炭のように燃えた木の破片が配置されたインスタレーション。この顔写真は塩田の親せきの古い顔写真を集めてきたものらしいが、顔が微妙に似ていたり、そうでもなかったりするのが面白い。
 塩田の作品は写真そのものというよりはそれを素材に使ったインスタレーションで、もちろんそのコンセプトからして、写真の記録性というものが作品の本質に深くかかわってきている作品ではあるけれど、写真そのものは複数の親せきから借りてきた写真を複写拡大したもので、塩田自身が撮影したものではない。
 一方、みうらじゅんはおそらく本人が撮影したと思われる写真が引き伸ばされて、展示されており、そういう意味ではこれは普通の写真展と変わりはないはずだが、会場の一部では「ザ・スライドショー」の映像も流されていて、別室の小部屋ではコメントはないけれど、ザ・スライドショーなどにも登場していた写真も含めて写真のスライドが展示されていた。
 この場合、そこにはつっこみを入れるみうらじゅんいとうせいこうはそこにはいないのだが、そこでその写真のスライドを見る人はいつのまにか自ら心のなかでつっこみを入れているのに気がつく仕組み。つまり、これは本来、ライブパフォーマンスであるザ・スライドショーインスタレーション版であるという風に現代美術的にはとらえることもできるわけだが、そうだとするとザ・スライドショーそのものも現代美術的パフォーマンスといってもいい、ということになるわけなのか(笑い)。
 あるいはやはりこの展覧会に参加している作家でこちらは明らかに現代美術畑のアートユニット、セカンドプラネットによる作品「TOKYO / PRAGUE」 「PRAGUE / TOKYO」*2。これも写真を媒介とした作品ではあるが、東京・プラハの在住の一般の参加者の協力を求め、その人たちがその街で見かけた典型的な情景を文字化したものを互いに送り合い、その情景のイメージに近いと東京・プラハのそれぞれのアーティストが考えた情景を写真として撮影するというもので、一種のコミュニケーションアートとしての側面も持っているが、そのほかにも文字→画像(写真)の翻訳の過程でさまざまな異文化のよるカルチャーギャップなどが浮かび上がってきて興味深い作品だった。この人たちは霊媒の人を媒介にして、アンディ・ウォーホールにインタビューするというある意味ふざけたような作品も製作展示しており、もちろんそれは「ザ・スライドショー」ほど笑える作品とはいえないけれど、悪意の満ち方といえば同等以上のものを感じるオオバカ作品ともいえる。
 ここで改めて考えると、「ザ・スライドショー」とセカンドプラネットの作品に本質的なジャンルの差異などはないとも思われ、これがある意味、最近の現代アートのボーダレスな状況を浮き彫りにしているともいえるのだが、写真という素材を媒介としてそういうものすべてを一緒に展示してしまうことで、「写真の現在」を逆照射しようというのが今回の狙いかもしれない。

*1:http://www.syabi.com/details/sakka_vol4.html

*2:ウェブバージョンをこちらのサイト(http://g-soap.jp/sp/#)で見ることができる

野鳩「なんとなくクレアラシル(愛蔵版)」

野鳩「なんとなくクレアラシル(愛蔵版)」こまばアゴラ劇場)を観劇。

作・演出 水谷圭一

出演 佐伯さち子 畑田晋事 堀口 聡 村井亮介 菅谷和美★ 山田桐子★ 佐々木幸子★ 水谷圭一
★ 菅谷和美・山田桐子・佐々木幸子の3名はトリプルキャストです。

スタッフ 舞台監督:海老澤栄
照明:増田純一
音響:中村嘉宏(at sound)
舞台美術:仁平祐也
小道具:中島香奈子 當間英之
イラスト:天久聖一
宣伝美術:水谷圭一
制作:山田桐子 佐々木幸子
企画・制作:野鳩/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場

 表題の「(愛蔵版)」で分かるように2002年に上演された作品の再演。トリプルキャストのうちこの回の出演は以前、毛皮族などにも出ていた佐々木幸子。
 野鳩の特徴はほとんどの作品で田舎を舞台に中学生の男女の恥ずかしくも懐かしい恋愛模様がSF・ファンタジー的な設定をからめて描かれる、というもの。役者のまるで棒読みのような平板なアクセントの台詞まわしや演技の際の漫画的リアクションなどは、まるで学芸会のような下手な演技に見えかねないところもあるが、何度かこの劇団を見てみると実は非常にきめ細かく確信犯として演出されている一種の「様式」であることが分かってくる。
 ここには例えばチェルフィッチュポツドールのように方法論的な実験によって、現代を鋭く切り取ろうというような意思はまったくないが、逆に一見、世界の動きなどとまったく関係なく、自分の妄想を世界として構築しようという水谷圭一の強い意思は感じ取ることができる。そういう意味では水谷の作品へのアプローチは実際の演技スタイルこそまったく違うが劇団☆新感線いのうえひでのりを連想させるところがある*1。 
 新感線でも中島かずきではなく、あえていのうえひでのりと言ったのには意味があって、新感線では時として、劇画やB級のアクション映画などに触発されて、非常に馬鹿馬鹿しい内容の芝居をやることがあり、その場合は登場するキャラクターの演技もそれを反映したきわめて様式的*2。それと同じように演技・演出を含めて野鳩の舞台は意図的に「漫画」を模倣しているのである。
 それは演技・演出といったスタイルだけではなく、この「なんとなくクレアラシル(愛蔵版)」では内容にも反映されている。というのは、一見、この芝居の筋立てはイソップ童話の「金の斧 銀の斧」を下敷きにしているように思われるが、実際にはそうでなくて、「金の斧 銀の斧」を下敷きにして藤子不二雄が「ドラえもん」で描いた「きこりの泉」というエピソードの方を下敷きにしているからだ。
 以下ストーリーを簡単に説明すると。ある田舎に仲良しの男子中学生2人組がいる。主人公はそのうちのひとりだが、友人がグラサン先輩の舎弟になったのをきっかけに2人の関係がうまくいかなくなる。
 そこへ東京から女の子が転校してくる。メガネの冴えない感じの女の子だが、メガネをはずしたら可愛い!というベタな展開で、主人公はその子が好きになり、なんだかんだあって付き合うようになる。
 村には泉があり、そこに物を落とすと「金の斧 銀の斧」の物語のように女神が出てくる。主人公が誤って友人からもらったクレアラシルを落とすと「あなたの落としたクレアラシルは、このクレアラシルですか?」と、普通のクレアラシルよりも大きく効果も高い(塗るとすぐにきびが治る)超特大のクレアラシルをもらう。
 さて、女子と付き合いはじめた主人公は、彼女とキスしたくなるが、まだ早いわと彼女は言ってキスをしてくれない。キスをしてもらえないのは自分が弱いのが原因だと、勘違いした主人公はグラサン先輩を例の泉に突き落とし、そのせいでグラサン先輩は情けないグラサン後輩に。さらに彼女も泉に突き落とし、自分に都合のいいようなHな女の子に変えてしまう……。
 ほのぼのとした牧歌的な雰囲気を装いながらも実は物語自体は相当にブラックで悪意に満ちている。寓話的にデフォルメされた形ではあるが、最初に「一見、世界の動きなどとまったく関係なく」と書いたが、ここでの主要なモチーフがいじめの問題であるということは女の子が東京でいじめにあってここに来たというわき筋を装ったエピソードからも垣間見られるし、いじめの問題が実は権力の問題とつながっていることもここでしだいに明らかになっていく。
 実はイソップの元々の「金の斧・銀の斧」には「神々は正しい人には援助するが、不正な人にはその反対の事をする」という教訓が語られており、藤子不二雄の「きこりの泉」もよくばりのジャイアンが泉に落ちて女神(のロボット)によって「きれいなジャイアン*3に変えられてしまうというブラックな落ちはあるものの、物語の趣旨はそのまま生かされるのが、ここでは女神は逆に権力欲にとらわれた主人公に結果として奉仕するというまったく逆の形で使われることになる。
 「藤子不二雄Aの世界を藤子不二雄F(藤子・F・不二雄)の線で描いた芝居」(うにたもみいち氏)との評が2002年の初演時のインターネット演劇大賞の選考会の席上で出た(最優秀新人劇団はこの年は逃す)が、それはこの作品に見え隠れする水谷の不穏な妄想のことがいいたかったのではないか。
 そうだとすればどうして、この物語を水谷は覆水盆に返るのような「友情の勝利」のごとくな予定調和の話に戻したのか。そこのところが妄想以上に実は興味がそそられるところである。勧善懲悪というのが水谷が規範にした時代の少年漫画の約束事だったからというのがひとつの答えではあるかもしれないけれど、いつかアナザーフェースとして藤子不二雄Aの世界のままで突っ走る野鳩というのも見てみたい。
 

*1:実は水谷らこの劇団の旗揚げメンバーは大阪芸大の出身でいのうえの後輩にあたるのであるが、その事実はほとんど関係なさそう

*2:もちろん歌舞伎とかそういうことじゃなくて、橋本じゅんが演じる「轟天」のように劇画チックなものになる

*3:「きれいなジャイアン」動画http://72.14.203.104/search?q=cache:EBT3j1iOvvgJ:fileman.n1e.jp/TOP.PHP%3Fmnu%3DSHOW%26ft%3D1%26fid%3D4-182k3781+%E3%81%8D%E3%82%8C%E3%81%84%E3%81%AA%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3&hl=ja&ct=clnk&cd=1

少年王者舘・夕沈ダンス「アジサイ光線」

少年王者舘・夕沈ダンス「アジサイ光線」シアターグリーン小ホール)を観劇。

出演
夕沈 珠水 白鴎文子 虎馬鯨 中村榮美子 蓮子正和 ひのみもく 日与津十子 黒宮万理 水元汽色 小林夢二
いちぢくジュン(てんぷくプロ) ばんたろ左衛門(てんぷくプロ) 和倉義樹 大西おに(スエヒロ アンド ザ スローモースローガンズ) 中野麻衣(千夜二夜) 藤沼茂人(千夜二夜) 池田遼


スタッフ
構成・演出:天野天街
舞台美術:田岡一遠、小森祐美加
美術製作:羽柴英明、枝松千
映像:浜嶋将裕
照明:小木曽千倉
音響:戸崎数子(マナコ・プロジェクト)
音楽:珠水、FUMICO
舞台監督:井村昂
小道具:田村愛
宣伝美術:アマノテンガイ
制作:西杢比野茉実
協力:髭枕れもん、山崎のりあき、須田卓志、ヨコヤマ茂未

振付:夕沈+アジサイダンス部

 ダンス公演と銘打っての「アジサイ光線」だが、そこで展開されるのはまごうことのない少年王者舘天野天街ワールドであった。これまで常々、少年王者舘の最大の特質は俗に「天野語」とも呼ばれる特異なせりふ回しによる重層的な言語テクストにあると考えてきたが、「天野語」の群唱によるボイスパフォーマンスがない今回の公演においても、その独自性がここまで明らかで、天野天街ワールドであり続けられうる。これはちょっとした驚きだった。どこまで要素を削ってもそれが可能なのかを考えさせられる意味で刺激的な公演であった。
 ダンス公演と書いたが、そのスタイルはバレエとも通常よくあるコンテンポラリーダンスともまったく異なるものだ。あえて言えば通常の少年王者舘にも出てくるダンス的なシーンをつないだものだが、下手につなぐとオムニバス名場面集やガラ公演的になってしまいかねないところをうまくつないでいたのに感心させられた。箸休め的になんどか出てくる珠水のひとり遊び的な芝居もここでは効果的で、文字の形に切られた板紙を使っての言葉遊びや映像の多用など、構成が単調にならないように工夫されていたのはさすがである。
 メインであるダンス部分は主役を演じた夕沈の振付だが、クレジットが夕沈+アジサイダンス部となっているのは一部、出演している役者が自分の工夫で振り付けた部分があるということであろう。もっとも特徴的なのは通常の公演で「王者舘ダンス」と呼ばれているいわゆる群舞で、ここでは狭い舞台に大勢のパフォーマーが一度に現れて、横に並んでほぼ同じ動きをしながら、右から左に、左から右へと正面を向いたまま、音楽に合わせて手と腕をまるで手旗信号のように動かしながら、移動していく。
 この場合、ダンスとはいえ、足は横歩きで蟹のように歩いて動くのに使用されるので、バレエやブロードウエーのダンスのようなステップというのはほとんどなくて*1、分かりやすい例でいえばディスコで一時流行した「パラパラ」みたいなものだと思ってくれればいい。そして、群舞全体の動きはインベーダーゲームを連想してほしい。
 「リバーダンス」で知られるアイリッシュダンスは身体が正面を向いたまま、手と腕をまったく使わず、足のステップだけで踊るダンスであるが、手と足の関係を完全に入れ替えたのが王者舘ダンスといっていいかもしれない。
 「夕沈ダンス」と銘打ったとおりにこの公演では主役の夕沈にはいくつかのソロダンスの場面があって、先ほど述べたようなダンス以外の要素を途中で入れながら、ソロと群舞が交互に展開する形で舞台は進行していく。
 映像の使い方(ダンスとの組み合わせ方)は相当に面白くて、あらかじめ、撮影した夕沈のダンスの映像と生の夕沈がデュオのように踊る場面ではいくつかのパターンの変化もつけてあって、目先を変えるのに成功しており、こういうところはレベルが高く、映像を使うコンテンポラリーダンスカンパニーにとっても参考になると思われた。
 ただ、今後の課題だろうと思ったのはダンスとして見た時にはやはり身体言語のボキャブラリーが多くないということだ。夕沈のソロも腕と手の動きのポジションを次々と変えていくムーブメントで、ソロでは全員が合わせて踊らなければいけない*2群舞とは違い、もう少し高度な技巧を凝らしてはいるが、これだけだとどうしても何度も繰り返されるうちに見飽きてしまうきらいがあるのだ。
ソロ・群舞のほかにデュオ、トリオの場面があればとも思った。
 もうひとつ気になったのは今回の公演は客席がすべて桟敷席でしかもこの日は楽日ということもあって、極限的なぎゅーぎゅー詰めの状態だったことだ。王者舘としてはよくあることだが、これもダンス公演としては体勢的につらくて、長い時間は舞台に集中しにくい状態だった。この環境では観客の生理を考えると途中休憩なしで、1時間半は少し長すぎたんじゃないかと思う。
 これは開演時間が迫ってからしか会場につけなかったこちらの落ち度だが、観劇した場所が1列目の一番下手の壁際。通常の公演だと問題ないが、今回はフォーメショナルな群舞やソロダンスが多く、正面性が強い公演で、私の位置からではその辺の舞台効果がよく分からないのがつらいところだった。それが王者舘だと言われればそれまでだが、今度見るとしたら大阪の一心寺シアター倶楽のようなもう少しゆったりして見られる場所で見たいと思った*3
 ただ、そうした課題はあっても、冒頭に書いたように今回の公演はいろんな意味で王者舘の新しい可能性を感じさせるものだった。もし、天野の舞台を海外に持っていくとしたら最適の演目ではないか。
 せりふのない天野ワールドには維新派のヂャンヂャン☆オペラがやはり以前の大阪弁ラップ的せりふの群唱の「ボイスのヂャンヂャン☆オペラ」から、「動きのヂャンヂャン☆オペラ」にスタイルを変化ないし拡大していることも思い起こさせた。この形式の公演を単なる一回性の企画だけではなく、これまでのスタイルと平行して第二の王者舘スタイルとして追求してほしい*4。そんな風に思った公演だった。 

*1:あったとしても、フォークダンスのように歩いている途中で何拍子かに1回の割合で踏みかえる程度

*2:ということは一番下手な人がどうしても律速段階になる

*3:そのためにも大阪公演もぜひ実現してほしいものだ

*4:台本はどうなっているのか。もし、あるとしてもそれまでの公演より書くのが早いのなら天野の場合には大きな違いじゃないかと思ったんだが、どうだろうか

「ナルニア国物語」

ナルニア国物語(アポロシネマ)を見る。
 「プロデューサーズ」を見に行くが、上演開始時間を勘違いしていたために「ナルニア国物語」を見ることにした。この映画を絶対に見ると決めていたわけではないが、「指輪物語」の時に「指輪物語1」を見ずにいきなり「指輪物語2」を見たら、登場人物のだれがだれかも、物語全体の設定を分からずに困ってしまった苦い記憶があるからだ。もっとも、「ナルニア国物語」の場合は「指輪物語」と違って、すべてのストーリーが完全につながってひと続きの物語になっているわけではないようだが。
 ただ、ディズニーが映画化したせいかどうかは分からないのだが、「ナルニア物語」にはこの映画を見る限りでは「指輪物語」やミハエル・エンデの「果てしなき物語*1」(映画では「ネバーエンディングストーリー」)のような哲学的な深みにはいまひとつ欠ける印象がある。アスランの復活などあまりにも都合がよすぎるし、なんの能力も持たない子供がいきなり戦士として軍を率いるというのも不自然といえなくもない。アスランをはじめとした登場人物をリアルに動かすSFXの技術には感嘆させられたが、これで本当に7作まで続くのだろうか。かなり、疑問を感じた。ルーシー役が可愛い(美人というんじゃないのだけれど)のでこのキャスティングに救われてる部分がかなりあると思った。

女生徒

女生徒

*1:ただ、この映画を見てミハエル・エンデの「果てしなき物語」がこの「ナルニア物語」を下敷きにしていたのだということはよく分かった。

林俊作FIRST Exhibition in OSAKA

林俊作FIRST Exhibition in OSAKA「画爆TERRO」HEP HALL)を見る。
 鮮やかなまでの色づかいの見事さと次々に絵に登場する怪物キャラクターのサイケデリックなイメージに圧倒された。1992年9月15日大阪生まれというから現在まだ13歳。それを考えれば凄い才能ということができるかもしれないが、そうじゃなくても才能のきらめきは感じさせてくれる作品で、今後彼がどんな作家に育っていくのか楽しみである。

『資本論』も読む

『資本論』も読む

植田正治写真集:吹き抜ける風

植田正治写真集:吹き抜ける風

植田正治の写真には以前から引かれるところがあって、東京都写真美術館で2月に開催された回顧展『植田正治:写真の作法』展には絶対に行くと思っていたのに会期を勘違いしていたこともあって、それが悔しくて、図録を兼ねていたと思われる写真集を写真美術館の売店で見つけ、購入した。
 芸術に関して古い新しいを言うのはなんだけれど、以前東京都写真美術館で「決定版!写真の歴史展10周年記念特別コレクション展『12人の写真家たちと戦争』」という展覧会を見た時にそこで取り上げられた同時代の作家、あるいはもっと若い作家と比べても、植田正治の写真だけが古色蒼然とはしてなくて、今撮られていてもおかしくない、と感じたからだ。
 「新しい」と書くと語弊がありそうなので、言葉を探すとそれは「現代」ということではなく、ある種の「普遍性」であり、その意味では「古典」ということも感じた。ところが、
その普遍がやはり同じく「写真における普遍」であり「古典」であるアンリ・カルティエブレッソンがそうではあっても、今見てそんなに新しくは感じないのはブレッソンが写真史においてその後の幾多の写真家に大きな影響を与え、その写真を今見る私たちにとってはブレッソンの意識は私たちの無意識のようなことが起こっているのに対して、植田はそうではなくて、写真史(特に日本の写真史に)において孤立したワン・アンド・オンリーの存在であったからかもしれない。
 そして、折に触れてはペラペラとページをめくりながら眺めているのだけれど、やはりいい。そうしたら、東京のギャラリー*1で今個展やってるのも発見したのだけれど、これも気がつくのが遅くて行けない。まじでいっそ鳥取植田正治写真美術館*2まで出かけようかという気分にこの写真集をながめているとなってきたのである。

渡辺源四郎商店「夜の行進」のレビュー(http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060218)を執筆。

 ずっと以前に観劇したのだけれど、そのままレビューが書けずじまいになっていた舞台のレビューを書いてみよう、の第2弾である。弘前劇場を退団した畑澤聖悟の旗揚げした新ユニットの開店公演。これは記録という意味でもちょっと書き漏らすには惜しい公演であった。

これってパクリでは?

simokitazawa2006-04-28

 最近、駅張りでよく見かけるポスター。どうも既視感があって気になってたんだけれど、これって現代美術作家、小谷元彦の作品「Phantom-Limb」のパクリではと思って愕然としたのだけれど。どう思いますか、皆さん。
 この写真だけでは小さくて分からないと思うので、少し調べるとこのポスターDAKARAのものだったようで、こちらがそのサイトhttp://www.suntory.co.jp/softdrink/dakara/です。

 ちなみにこちらのサイトで「Phantom-Limb」の写真が見られます。本当は5枚組の写真の作品(すべて白い衣装を着て仰向けになった少女の写真)でこれはそのうちの1枚なのですが。
http://www.kirin.co.jp/active/art/kpo/art/exhibitions/2004/odani_1.html

 私は偶然にしては似すぎていると思うのだが、大丈夫なのかサントリー

本城直季写真展

本城直季写真展(equal)を見る。

small planet

small planet

 堀江公園近くのギャラリーequal*1本城直季の写真展を見た。本物の風景をまるで模型のパノラマ写真のように撮るということで、最近話題になっている新進写真家の個展である。写真が面白かったので思わず会場で売られていた写真集も購入してしまった。
 いってみればコロンブスの卵のようなもので、すでにネット上でも似たような写真をこうしたら撮れるという風に公開しているサイトもあるらしいのだが、こういう風に撮ったらそう見えるのかという発見というのは、私たちが普段、2次元である写真をどのように見てそこに写ったものを認識しているのかとか、そういうことを認識するのはやはり脳なのだななどといろんなことを考えさせてくれるのが面白い。
 もっとも、そんな小難しいことを持ち出さなくても、単純に「面白い」という写真が多いのがこの人の写真の特徴なのであるが。海辺で木とトラックが写った写真とか、巨大な流水プールの写真とかは本当にどうみても作り物みたいで驚かされる。
 写真展は大阪では5月7日までやっているみたいなので興味のある人はぜひどうぞ。東京でもgood design company併設ギャラリーで5月12日まで、水戸芸術館の「クリテリウム展」(5月7日)にも出品されているみたいなので興味のある人はどうぞ。
 残念なのは会場となったequalが今回の展覧会を最後に閉鎖になってしまうこと。それほど足を運んだ回数が多かったわけではないが、「現代美術2等兵」を積極的に取り上げたり、大阪のギャラリーとしてはちょっとアウトサイダー的なところもあったけれどその分、異彩も放っていただけに惜しいと思う。ただ、運営していたメンバーは今後、拠点は特に持たないフリーランスの形で現代美術の展覧会の企画などは続けていくということみたいなので、そちらの今後には期待したい。
 

尼崎ロマンポルノ「機械少女」

尼崎ロマンポルノ「機械少女」(ウイングフィールド)を観劇。
 関西の若手劇団の芝居を見るぞ企画第2弾。作演出は橋本匡。こちらの方は旗揚げ3回目。劇団サイト*1でメンバーの年齢を見ても、1981年−1983年生まれと20代半ば。正真正銘の若手劇団といっていいだろう。
 まず劇団名にひかれるところがあり、以前から気になっていたのだが、今回の芝居の題名「機械少女」というもオタク系を思わせるものであったため、ひょっとしてロボットの少女が出てくるアニメオタク系の話かという期待もあったのだが……。
 そういう期待はこちらの勝手(妄想)なんで作ってる側にはいっさい責任はないのだが、エロなし、オタク趣味なし、むしろ少しおどろおどろした古風とも思えるアングラ系を思わせる作風なのでちょっと肩透かしであった(笑い)。ただ、そういう若い人たちがなぜ今あえてこういうスタイルの芝居をやろうとしているのかについては興味を引かれた。90年代演劇はその後半に平田オリザが登場したことによって、群像会話劇をスタイルの規範としてきた部分があるのだが、それを前提とした時に逆にそれ以前の唐十郎らのアングラ劇のようなものに引かれるという揺り戻しがあるのであろうか。
 舞台は日本海側のある村落。そこには村人皆がそれを楽しみにし、生きがいとしている祭があり、その祭は古来からそれを守る蓮沼家という神官の家に受け継がれ続いている。今年は25年の一度の大祭の年。その年には必ずマツリゴトをつかさどる神官が代替わりすることになっている。受け継いで神官の座にすわることが目されている現在の神官、蓮沼大吾の息子、育にはどうも出生に秘密があったようす。一方、実は育には腹違いの弟がいて、母親の手で育てられている。
 この母親の元には子供の養育費を持って、月に一度、神官の弟(叔父だったかも)がやってくる。この男も神官の一家ではどうやらやっかいもの扱いされているようだが、大祭を翌日に控えた日の夜、弟は母子を連れて蓮沼家にやってくる。彼がこれまで調べて判明した事実を元に育はもともと娘(女性)として生まれたが、女性には神官の相続権はないため、本当の相続者は腹違いの弟の方だとして、神官の後継の座を要求するために……。
 この舞台は閉鎖的な世界でのどろどろとした事件が語られていく。こうした道具立て自体は少し昔の大人計画の芝居などを思い起こさせるところもあって*2、面白くはあった。
 ただ、あまり事前情報を入れず芝居を見始めたので、途中までは何でこういうことを主題として取り上げるのかよく分からなかった。だが、途中で神官が(若干うら覚えだが)「私たちは日本で一番有名な家族だ」と叫ぶ場面があって、そうかようするにこれは天皇制(=日本の皇室)を寓話化したものなんだな、ということが氷解してきた。
 終演後、当日パンフを読み直してみると作者は「今作は日本を象徴する家族を下敷きにしております」と書いているから、確信犯としてそうしたので、この芝居には天皇の「て」の字もいっさい出てはこないのだけれど、確かにそういうものとして読み解くことができる。
 ただ、残念なのは、そうだとすると、その主題の取り扱い方があまりにもガサツと見えるところが随所に見え隠れしてくることだ。
 例えば、弟の家族は牛を飼うとともにその屠畜・解体の仕事をなりわいとしている。これが天皇制の話と結びつくと、当然見る側としては被差別部落天皇家の関係の問題などを語ろうとしているのかと考えざるをえないのだが、どうもこの舞台を見る限りはどこまでそういうところをはっきり意識して作っているのかということがはっきりせず、そこの姿勢に若干の疑問を感じる。
 この義理の弟は村落の外側に暮らしており、祭りのなかで人々に忌み嫌われる「鬼」として遇させれるということも合わせて考えてみれば「当然、意識している」とも読み取れるが、そうだとすると物語のなかでこうしたモチーフを取り上げる時に最低限配慮しなければならない描き方があるのではないかと思ったのだが、どうだろうか。
 メタファーの批評性ということからいえば、ここでの物語の設定が歴史的事実や現在の事実関係と一対一対応はしていないので、「女性は後継になれない」という設定が今問題になっている皇室の後継問題と関係してはいることが、この物語の設定から匂わされてはくるのだが、そうだとするとこの結末天皇制についていったいどういうことを言おうとしているのかがはっきりとは分からない。
 さらに言えば、どうも作者はこの物語に供犠と王の誕生についての神話的モチーフを強引に持ち込もうとしているみたいなのだが、どうも全体の構造がはっきりしてこなくてもどかしいのだ。
 最後の方で重要な主題として育の出生の秘密が明かされる。それは出生の時に妹とつながったシャム双生児として生まれ、それが手術により切り離されたことで妹は死に兄の育だけが生き残ったということなのだが、作者にはどうもこのモチーフを先に書きたかったのではないかというところが見受けられ、そのことと皇室にかかわる寓話化された周辺の構造がどうもうまく噛み合わずにそれで話がよく分からなくなってしまっているように見受けられたのだ。
 最後に兄である育に影のように寄り添っていた妹の長台詞による独白があり、その後、育が神殿のなかで自死し、それを抱える弟との2人の上に紙ふぶきが降り注ぐという、まさにこれさえあればなんでも終われるというアングラ演劇の黄金律のような終わり方をしている*3のだけれど、理屈が破綻したところを勢いで終わらせるようなのはもういいよと思ってしまった*4
 この集団はふざけた劇団名とは反対にどうもすごく真面目なところがあるみたいで、だからこそこういうシリアスな主題に挑戦したのだと思うし、その心意気は大いに買いたい。だが、それだけにこの芝居ではどうも描きたかったことが分裂してそれをそのまま全部脚本に放り込んでしまった結果、どうにも収拾がつかなくなってしまったという節が見受けられたところが惜しまれた。
 今回は主題が主題であるゆえに厳しいことを書いたが、この集団が面白いのはアングラ系とは書いたが、唐十郎に似ているわけではないし、そういう既存の集団に似ているという意味での既視感があまりないことだ。冒頭で大人計画を挙げたがこれはモチーフのあり方に類似を感じたので、スタイルが似ているというわけではない。途中どうでもいいような(と私には思われた)ギャグが次々にすべっているように思われたのはちょっといただけないが、
アングラ的な嗜好がありながら、映像を多用することに対してまったく躊躇がないというところなどは世代による差を感じさせて興味深かった。

*1:http://www.geocities.jp/titiharahara/

*2:大人計画の名前を出したが、実際にはそれを見た当時、大人計画に似ていると思った一時期のデス電所やそとばこまちにより似ているのかもしれない

*3:おそらく、単にそういうのが好きなだけだとは思うけれど

*4:そのほか、気になったのは表題の「機械少女」の「機械」というのはこの物語のなかでいったいなんだったのかということだ。パンフの載ってる歌詞を参照すると劇中歌の歌詞で最初の歌に「奇怪」、次の歌で「機会」というのがでてくるけれど、いくらなんでも、まさか単なる言葉遊びっていうことじゃないだろう。パンフではその後の作家の挨拶文に「本日は尼崎ロマンポルノ第三回公演『機会少女』にご来場いただき」とあって、さすがにこれはミスプリだと思うのだけど、これがあるためにその前に書かれた劇中歌「そして機械少女は完成する」の歌詞中の「機会に感けた私の体 あっけなく動きを止めた(さらに言えば、機会に感けたというのはいったいどういう意味でどう読んだらいいのか私には見当がつかない)」というところで、本当にここは「機会」でいいのか、それともやはり「機械」の間違いなのかがすごく気になってしまう

このサイトの見方について

 文字分量が多すぎて、このサイトをどういう風に見たら分からないという人がいるみたいなので、簡単にこうしたら分かりやすいの提案を書き留めておくことにしたい。例えばこのブログに書かれている記事のうち、現代美術に興味があるという人の場合、まず、どれかの記事の前についた[現代美術]という見出しをクリック。そうすると書き込みのうち、この見出しと関係ある記事だけが抜き出されて表示されます。これで読み始めてもかまわないのですが、これでもまだ文字分量はかなり多いので、その場面のまま、サイト内検索のところを
詳細→一般に変え、もう一度検索。そうすると次のような画面が表示されます。
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/archive?word=%2a%5b%b8%bd%c2%e5%c8%fe%bd%d1%5d

 過去のその分野についての記事の見出し一覧ですが、これが意外と便利。私の自分のサイトで過去記事を探すときにけっこうこの機能をつかっています。ちなみにこの画面のまま上のバーのところの演劇/ダンス/本/現代美術/……をクリックしてみると、それぞれの分野についての一覧が表示されるはず。一度、試してみてください。もっとも、それで当該記事をクリックして行ってみるとなにも感想が書いてなくて、がっかりすることもあるので、それはすまないと思ってるのですが。