京極夏彦「邪魅の雫」(講談社ノベルス)

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

 京極夏彦のひさびさの新作。現在、817ページのうち408ページまで読み進んだところである。それゆえ、ミステリ小説としての評価などは読了後でなくてはできないが、京極堂が語るうんちくのディティールは相変わらず面白い。
 例えば、自作の批評で悪口を書かれて、噴飯やる方ない関口巽に向かって、京極堂が林檎に例えて「書評とはなにか」について語るくだり。「あのね、書評なんていうものは概ね四種類しかないのだ」「ここに林檎があると思い賜え。で、林檎がありますと云う。これが一つ目。で、兎に角この林檎は美味しいですよ食べてみましょうと云う。これが二つ目。それから、実際自分で食べてみたけれど少し硬くて酸っぱかったから好みじゃないとか云う。これが三つ目。最後は、この林檎はこうして作られたと思うとか、この林檎の成分はこうだと思うとか、この林檎の所為で蜜柑が不味くなったとか、そう云う空想を巡らせて愉快なことを云う」。
 ここで取り上げられるのは書評ではあるけれども、ここでの京極堂の「書評論」は評論一般に敷衍してもなりたつ射程を持っており、その論陣はこの小説内世界として設定された時代を超えて、作者自身は明示はしないけれど、ロラン・バルトフーコーなどの構造主義ポスト構造主義現代思想と通底している匂いも色濃くあり、現代でも説得力を持つものでもある。
 説得力を持つ、というのは言い換えれば一見、奇抜なレトリックをまとっていても、実は意外と常識的なことを言っているのだということでもあって、「作者と作品は全く切り離されるべきものだ」「テクストをどう読み取ろうと、どんな感想を抱こうと、それを何処でどんな形で発表しようと、そりゃ読んだ者の勝手であって書き手がどうこう口を出せる類のものじゃない」などの論議は言ってみればテクスト論、エクリチュール論の常識であってそのこと自体に格別に新味があるわけではないのだが、ミステリ小説の枠組みを借りて、「言語」「認識」「主観/客観」といった現代思想の問題を扱うのが、京極夏彦の「妖怪」ものと本質ではないかと思っているのである。
 とここまで書いてきて、こうした文章は京極堂の分類によればこの「邪魅の雫」というテキストなり、「妖怪」シリーズとはなんの関係もない「空想を巡らせて愉快なことを云う」類のことになるのに違いない(笑い)。
 これまでのこのシリーズでは関口巽という不完全な認識装置という仕掛けをミステリ小説としてのネタとして展開してきたことが多かったのだが、この「邪魅の雫」は少し違っている。これまでのシリーズでの脇役たちが活躍するなどと言われていて、それはそれで間違ってはいないとは思うが、関口巽、あるいは逆の意味での榎木津といった特権的な認識装置を登場させずに普通(と思わせる)複数の人物の視点を並列的に並べることで、ある特定の事象に対していずれも特権的な立場にはなりえない複数の「主観」を併置することで現れる無数の「ずれ」が引き起こす幻影術というのがこの小説のモチーフではないかと睨んでいるのだが、果たしてどうだろうか。
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五反田団「さようなら僕の小さな名声」@こまばアゴラ劇場

五反田団「さようなら僕の小さな名声」(こまばアゴラ劇場)を観劇。
 作・演出の前田司郎が自ら主演、劇作家・五反田団主宰の前田司郎を演じる。その意味で確かにこれは前田自身が称しているように「私演劇」には違いないが、内容はけっして日常劇ではない。これがこの芝居の肝である。
 芝居の前段では前田の日常生活(らしきもの)が描かれる。前田司郎が演じている主人公の「僕」は作中で「前田さん」「団長」などと呼ばれている劇作家・劇団主宰者であるため、前田はこれを「私演劇」と呼んでいたが、冒頭近くの記者による取材インタビューの部分など相当にデフォルメされていることを差し置けば、前田自身が過去に経験した実体験に根ざした場面であるかもしれないというのがうかがわれます。しかし、その現実にここで前田が語る次回作の概要「蛇が、大蛇がいて、そいつが世界を飲みこんじゃうですね。それで世界中が溶けて一つになっちゃうんですけど……(中略)つまり蛇は愛の象徴なんですね」がそのままこの「さようなら僕の小さな名声」の概要となっている、つまり自己言及的な構造を持つことがこの作品の特徴なわけですが、興味深いのはここで語られる主題が自分で自分を食べる蛇つまり、一種の「ウロボロスの蛇」のイメージを介して、「僕」のマターン行き(死の象徴)とそこからの帰還(再生の象徴)(続く) 
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ジャブジャブサーキット「歪みたがる隊列」@精華小劇場

ジャブジャブサーキット「歪みたがる隊列」(精華小劇場)を観劇。

作・演出 はせひろいち
出演 咲田とばこ 小関道代 岩木淳子 猫田 直(tsumazuki no ishi)
はしぐち しん(コンブリ団) 中杉真弓 岡 浩之 小山広明 
Nao(客演) 高橋洋介(客演) 

スタッフ 照明:福田恒子
音響:松野 弘
舞台美術:JCC工房
衣裳:千頭麻衣
小道具:永見一美
舞台監督:岡 浩之
宣伝美術:奥村良文(ワークス)

 内容についてネタバレしています(注意してください)。













 ジャブジャブサーキットのはせひろいちの新作は2004年に上演された「しずかなごはん」*1の続編的な匂いがする作品。「しずかなごはん」は摂食障害を取り上げたがこの「歪みたがる隊列」では乖離性同一性障害(DID、Dissociative Identity Disorder)*2つまりいわゆる多重人格障害を主題にしている。
 多重人格をモチーフにした文学作品、映画、演劇というのはこの問題の古典である「ジキルとハイド」をはじめとして珍しくはないのだけれど、ダニエル・キースの「24人のビリー・ミリガン」など一部の例外を除くと、その大部分は「多重人格」という趣向を作品のなかに取り込んでいる*3という類のものであって、この問題について正面から取り組んだものは少ない。
 この舞台ははせひろいちが得意とするミステリ劇タッチのテイストにもなっていて、面白く見られるのだが、実はそこに大きなジレンマもあったのではないかとも感じてしまった。この舞台は女性のモノローグによるジグソーパズルの話で幕を上げる。「……そしてそのパズルは、決して対象年齢を設けた、安全に配慮して設計されたモノではなかった。取り扱いが厄介なのだ。一つ一つの断片はまるで砕け散ったグラスのように、エッジが鋭く、慎重に指を運ばなければ、私は指をいともたやすく傷つけてしまう」。ここまで聞いてくるとここで話されているパズルというのが実はパズルのことではなくて、乖離性同一性障害の治療行為についての比ゆだということが分かってくるのだが、最初に登場するこの比ゆは重要である。というのはこの後の物語は比ゆに出てくるパズルを次第に完成させていくような一種のなぞ解きの構造として語られるからだ。
 面白く見られたと冒頭に書いたけれど、この芝居はDIDについての知識がまったくなくて、ダニエル・キースの小説なども読んだことがない人にとっては決して分かりやすいものとはいえないのかもしれない。というのはこの舞台では冒頭からしばらく、何人かの登場人物が現れて普通の登場人物のように会話を交わすのだけれど、これがすべてこの物語に登場する患者(梨本茜)の心の内部での人格同士の会話であるからで、ここではそれぞれの俳優たちがいくつも人格を演じわけるのではなくて、人格ごとにそれに対応する異なった見かけ、性格を持った人物をそれぞれひとりの俳優が演じるという形式をとってくることが分かってくる。
 ところで分かりやすくはない、と書いたのはしばらく、そうした内面の会話が続いた後で医者らしき人物と看護士らしき人物が登場して、患者(の人格)と会話を交わすのだけれど、演技・演出的に両者の間に大きな質的な差異があるわけではないので、実際にははせの狙いはそんなところにはなかったわけだが、観客としての私は物語内部での整合性から、「いったいどこまでが患者の内部の出来事で、どこからが外(つまり現実)の出来事なのか」の境界線の引き方を同定しようということにほとんど費やされてしまった。
 というのはこうした場面の後で、あたかも新たな訪問者のように「友科藍子」と名乗る訪問者が現れて先ほど登場していた医療スタッフと会話を交わすのだが、その後の場面の医者のレコーダーによる記録をとるシーンで、この人物が患者に突然現れたいままでにない新しい代行人格であることが明かされるからで、ミステリ読みの常識から言えば「2度あることは3度ある」というわけで、以後登場する人物すべてに疑いの目を向けざるえない羽目に陥った(笑い)。
 もっとも、はせはその直後のスタッフ同士の会話の形を借りて、友科藍子(ともしな・あいこ)について、「ともしな」は「梨本(なしもと)」のアナグラム、藍子の藍は「藍色の藍だから茜色の逆配色になる」とネタを明かしたうえで、「もし、仮に、ココが劇場で、お芝居として見せてたとすれば、お客さんの中には、上演の前、パンフの役柄の記載を見て勘ぐった人もいるんじゃないかな」「ああ、なんかマニアみたいな?」というような楽屋落ちの台詞を役者にしゃべらせたりして、深読みの観客をからかったりもしているのだが、観客のそういう性向を増長させているのは判じ物のようなはせの脚本だということを素直な観客の立場からは逆に指摘しておかねければならないであろう(笑い)。
 この友科藍子の登場以降、「解かれるべき謎」はしだいに収斂してきて、次第に明らかになってくる。それは単純に言ってしまえば、どんな幼少期のトラウマが梨本茜の病症の引き金になったのか、ということであるのだが、それに対する伏線としては先ほどの「過去の記憶(トラウマ)」を持たない「友科藍子の謎」を中心に謎の人格、鏡子はなにものなのか、姉の怪しげな振る舞いは……などの副次的な謎がからまって、最後のクライマックスに向けて進んでいくことになる。
 さて、冒頭でジレンマと書いたことがここから明らかにしていきたいのだが、この「歪みたがる隊列」はものすごく巧緻に組み立てられたミステリ劇としての構造を持っていて、物語の最後にいたってこうした謎は一定以上の説得力を持った解釈により混乱なく過不足なく説明されてしまう。これはこの作品をミステリ劇だと考えた時に決して否定的に言うことは出来かねるのだが、その時、同時に脳裏を横切るのは「果たして乖離性同一性障害(DID)を引き起こすような心の闇というのはこのようにクリアーに解釈されうるものなのだろうか」というアクチャリティーについての疑問である。
 戯曲の最後にはせはいくつかの参考文献を挙げていて、おそらくこの病症についての最新の知見を相当に詳細に調べたのであろうことが、この舞台そのものからは感じられるし、そのうえで舞台化ということを考慮した場合におそらくまだいくつかの解釈や治療法が入り乱れていて、これという決定版がない状況においてこの芝居を上演するにはなんらかの明確な解釈を持ち込む必要があったのではないかということは理解できるし、救いのない状況において物語のラストにおいてなんらかの救済を書き込みたいというはせの意思のようなものも理解できるけれど習い性としては「クリアーな解釈は図式的に思えて、大きな落し穴があるのでは」と考えてしまうのだ。もちろんこれは幾分ないものねだりにも似たいちゃもんのようなところもあって、もしより混乱した状況が描かれていたとすると「もう少し明晰に」と言い出しかねぬ性向が自分のなかにはあることを前提として自戒の意味もこめて思ったのだけれども。そういう意味でこの舞台からは芝居における「リアル」とはなんなのかについていろいろと考えさせられた。  
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*1:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20041029

*2:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E9%9B%A2%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3

*3:小説でいうとホラー小説で映画にもなった「十三番目の人格 isora」、演劇では「トランス」(がそうだと思いこんでいたのだが、よく考えたら違ったかも)、どうでもいいようなものを挙げれば演劇弁当猫二ャー「弁償するとき目が光る」もそうだった。ミステリ小説に関していえば枚挙にいとまがないともいえるが、ネタバレになるんで書けない(笑い)

京極夏彦「邪魅の雫」(講談社ノベルス)読了

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

 ミステリ小説における論理の面白さはロジックにあるのではなく、そのレトリックにあるのだというのが、相当以前(大学時代)に私がたどり着いたひとつの結論であったのだが、京極夏彦の魅力はそのレトリックの面白さが存分に味わえるところにある、と思う。いわゆる意外は犯人像を提出しようとか、(事実として)意外な真相を提示しようという意図は前作の「陰摩羅鬼の瑕」同様にもはや京極夏彦にはないように思われる。そして、それは確信犯としてないのだとさえ、この作品を読んでいて感じられた。
 普通のフーダニットのミステリ小説と考えれば、「犯人」はちょっと感のいい人ならば物語の中盤あたりですでに割れている、ともいえる。ただ、それでもこの小説が面白いのは物語の後段部分での京極堂が登場して以降の民俗学の学説を援用して展開する論理の展開の巧みさにある。「世間話*1・伝説・歴史」がそれぞれどのように違うのかということについての京極堂の説明はそれだけでも面白くはあるし、そこにはまるで良質なエッセイを読んでいるときに感じるような小さな新しい発見もあって、そこもこのシリーズの魅力だが、ここがミステリとして面白いのはそうした説明が単純な薀蓄(ペダントリー)のようなものにとどまらずに事件の真相の解明に密接なつながりを見せていく、このときの語り口にあるのだ。つまり、ここでも論理(ロジック)自体は面白いとはいってもそれは柳田國男の学説をはじめ、元があるものでけっして京極夏彦のオリジナルというわけではないと思われるのだが、そうであってもそれが面白く感じさせることはレトリック(語り口)が巧妙であるからで、そこにこそ京極夏彦の真骨頂はある。
 そういえば以前に京極堂の批評論*2を紹介したことがあったが実はそのくだりにも「世間」*3というタームが登場する。実はここでの「世間」と後ででてくる「世間話」は言葉としては同じ意味合いつまり民俗学の言説で使われているのだが、この時点ではまだそれは一般によく使われる「世間」との区別はそれほど明確ではなかった。そして、後段になって京極堂がこの言葉を頻用しはじめた時にはじめて、この時に「世間」に込めた意味合いがより一層明らかになるわけだ。そういう情報提示の仕方も巧みな技巧であるといわざるをえない。
 ここで触れたレトリックとは京極堂が物語内で展開する論理についてのことだが、小説自体についていえばこの小説における京極夏彦の遊びも含めた「語り口」もなかなかにみごとなもので感嘆させられる。「殺してやろう、と思った」「亡くなった−−」「死んでいる」「死にそうだ馬鹿野郎−−」「死のうかな−−と思った」「殺したよ、と男はいった」「殺される訳じゃあるまいに−−」「殺す以外にない−−」「死因に就いては−−」……きりがないのでこのくらいでやめておくが、いずれもこの小説での各章の書き出しの一文だが、そのすべてに「死」ないし「殺し」を連想させるような言葉が挿入されている。
 「邪魅の雫」では物語のなかでも特殊な青酸毒によって次々と人が殺されていくという「死屍累々」という物語なのだが、その物語のそれぞれの章の書き出しで、「死」「殺人」を連想させる言葉を京極夏彦が並べたのには読者に無意識のうちに死のイメージを植えつけようというサブリミナル効果を狙い、それによってこの小説の基調低音を「死」のイメージで埋め尽くそうとした意図があったのは間違いないだろう。笠井潔のことを揶揄するつもりはないが、まさに「大量死」である(笑い)。
 ところがこの「邪魅の雫」の構造がユニークなのはこれほどの大量の「死」を抱え込みながらも、その中心であるべき「犯人」が実は空虚なことだ。京極夏彦といえば「操り」というモチーフへの嗜好が顕著なことはいまさら指摘すべきことでさえもないほど明らかなので、ここでもそのパターンを連想せざるをえないのだが、京極堂が言うように「これは操りの犯罪なんかじゃない」のであり、そこが新しいといえるのだろう。
 妖怪としての「邪魅」が登場しないという不満がネット上でもとりざたされているようだが、京極夏彦がインタビューで答えているように「実態のない妖怪が邪魅」なのだとしたら、どこにでも存在し、そしてその実、空虚である存在はまさに「邪魅」にほかならないと思う。
 

*1:http://www.tamariver.net/jouhou/tamagawashi/parts/text/072200.htm

*2:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061101

*3:「世間」という言葉についてどうもデジャヴがあると思い考えていたのだが、ネット検索してみたらどうもこれ

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

だったようだ。そうだとすると京極堂が後段の途中で歴史学民俗学の違いについて述べた後で、「民俗学の資料は歴史学にとって参考程度にしかならない。歴史資料は徒に行間を読んだり紙背を探ったりしてはいけない、などと批判するのは阿部歴史学批判ではと思ってしまったりしたのだが、考えすぎか。いずれにせよ、柳田国男「世間話の研究」とすでに一度読んだはずだが、この本はもう一度読んでみたいと思った

浦沢直樹の対談

『20世紀少年』『PLUTO』の作者である漫画家、浦沢直樹と漫画プロデューサー、長崎尚史の対談が11月8日に京都精華大学であるみたいだ。平日なのでどうせ無理と思ってたら、なんとこの日は仕事が平日休みになっていけることはいけるスケジュールになった。京都精華大学、大阪から行くとかなり遠いのではあるが、さてどうしようか。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/assembly/2006/1108.html
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France_pan「スペアー」

浦沢直樹の対談のレポート楽しみにしていた人がいたらすいません。間に合う時間に起きられずいけませんでした。風邪を引きそうになっていて、というか微熱があったからすでに引いていて、どうせ間に合わないのだから、この日の仕事が休みなんで体力回復のため睡眠にあてることに。風邪は一応治った気配なのでまだ注意する必要はあるけれど、仕事のスケジュールで朝出が多い今週後半以降を乗りきれそうでほっとする。
 夕方起き出して、美術展と芝居に出かけた。

「gallerism2006 現場だ!」(大阪府立現代美術センター)

「gallerism2006 現場だ!」を(大阪府立現代美術センター)を見る。

展覧会期/10月30日(月)-11月11日(土)
開館時間/10:00-18:00(最終日のみ16:00まで)
日曜休館・入場無料
会場/大阪府立現代美術センター(展示室A・B・地下広場) →地図
主催/gallerism2006実行委員会・大阪府立現代美術センター

 京阪神の現代美術画廊14画廊が集まって組織する「gallerism2006実行委員会」と大阪府立現代美術センターが主催する毎年恒例となった「gallerism(ギャラリズム)」。今年は14画廊が参加します。画廊からの推薦作家で構成する作家の作品を一度に鑑賞できる機会であるとともに、現代美術の社会的需要と支持層の拡大を図る事をコンセプトとしています。 3回目となる今回のサブタイトルは、「現場だ!」としました。画廊は、作品を不特定多数の鑑賞者の前に解放する舞台であり現場であると共に、作者が自らの完成を社会に発表する現場でもあるという思いをストレートに表しています。会期中、オープニングトークをはじめトークショー、ライブパフォーマンスなどイベントも多数開催いたします。是非ご高覧ください。
※会期中、展覧会カタログを無料配布いたします。
【お知らせ】
今年も俳人の杉浦圭祐さんが、出品作品を一句五七五に詠む試みをブログ形式にて公開されています。最終日に会場にて発表。その過程を是非ご覧ください。
http://gallerism2006.sugiurakeisuke.com/

【参加画廊/作家】
アートスペース虹/人長果月(映像インスタレーション)
天野画廊/瀬戸理恵子(立体)
楓ギャラリー/ 木藤祐美(平面)
画廊編/ぎゃらり かのこ/山本恵(立体)
ギャルリOU/七野大一(インスタレーション)
Gallery OUT of PLACE/森村誠(平面+立体)
Gallery Den/水垣尚・岡本和喜(インスタレーション)
ギャラリー白/冬耳(平面)
Gallery H.O.T/鍵井保秀(インスタレーション)
アートスポットギャラリーマーヤ/谷内一光(平面)
GALLERY wks./竹之内聖司(インスタレーション)
CUBIC GALLERY/谷口順子(平面)
信濃橋画廊/佐々木昌夫(平面+立体)
番画廊/出原司(平面+立体)

encore exhibition/企画展示* 木内貴志(インスタレーション

  今回の最大の目玉は昨年のこの展覧会に出展した作品が非常に人を食った面白いもので、この人はすごいと思った木内貴志。昨年の年末に書いた「2005年年間ベスト(現代美術)」*1でも紹介したのだけれど、「お笑い現代美術」の旗手である。
もう一度書き直そうかと思ったが、けっこう分かりやすく書けていたのでもう一度ここに再録しておくことにする。

 現代美術にはけっこう笑っちゃうような作品が多いように思うのだけれど、一度そういうレッテル(ネタモノとか、お笑いとか、関西系とか)を貼られると被差別的な境遇に置かれて、なかなかまともには取り扱ってもらえないような雰囲気が現代美術界には感じられる。演劇にしてもダンスにしても、あるいは文学を例にとっても笑いというのは表現において非常に重要な要素で、それだけの主題で批評も書かれていて、例えば文学を例にとればユーモア小説やファルスなどそれだけでもひとつのサブジャンルをなすほどのものであるのにこと美術、特に現代美術においては「笑い系の現代美術」などというものは聞いたことがないし、「ハイアート」はそういう下世話な要素は他のジャンルにまかせて、私たちは孤高の道をいうというような生真面目なところがあるみたいだ、というのがこれまで現代美術を見てきて感じる雰囲気。
 そんなところに一石を投じたのが、木内貴志がキュレーションをしたグループ展「展覧会の穴」。大上段に振りかぶった言い方をすれば「お笑い現代美術」という新たなジャンルを提唱した意欲的な展覧会といっていいかもしれない。本当はこの「展覧会の穴」こそ、今年の美術展示のなかで1位に持っていきたいところだったのだが、そうはできずに4位などという中途半端なところにいれてしまった自分が哀しい。
 実は木内貴志は同じ会場で昨年12月にも「木内貴志展 キウチトリエンナーレ2004 名前と美術」という人を食った名前の個展をしていてそのなかの記帳台に置いてある芳名録に記帳をしてくるだけで、ギャラリーを実際に回ったような気分になれるという「妄想ギャラリー巡り」という作品がむちゃくちゃ面白かったのだが、昨年の年間ベストでは入れ損なっていて(というか、おそらくまだ悟りがえられず、入れる勇気がなかった)のが悔やまれるところなのだが、今年はこれだけじゃなくて「gallerism2005」にも、「画廊の支店」と題して参加ギャラリーの記帳台だけを集めてきて、そこに展示するという作品(?)や参加ギャラリーを実際に回って、ギャラリーで出されるお茶を集めてきてそれをブレンドするという作品(?)を展示していて、それも面白くて思わず笑ってしまったのだが、まさに絶好調というところ。現代美術界ではだれも評価する人がいないとしても、個人的には現在次の展覧会がもっとも楽しみな作家なのである。

 この展覧会は今年が3回目になるのだが、毎年前年の出展作家のうちのひとりが選ばれて、次の年にメインの会場以外の別室が与えられて、個展を開催できるのだが、今回はそれに木内が選ばれたわけだ。
 思わず笑ってしまったのは「Attack! Twenty-five」 (コピー用紙にインクジェットプリント、色鉛筆/2006)という平面作品。ただ、見ているとキャンバスの画面が色分割されているアブストラクトの絵画が上下左右にたくさん並んでいるようにしか見えないのだが、近づいてよく見ると、それぞれの絵の下にそれぞれ日にちが書かれていて、表題をもう一度眺めてそうか(笑い)。テレビのクイズ番組「パネルクイズ アタック25」の最終のパネルの状態を記録して、そのとおりの色合いで25の矩形に色を塗ったものを作品として展示していたのだった(笑い)。色分割した抽象画というのは現代絵画を中心にした展覧会にいくとかならずあって、似たような作品のうちどれがよくてどれが悪いのか正直言ってわからないと当惑させられることが多かったのだが、パネルクイズの結果をただ書いたものでもこういう風に展示するとハイアートみたいに見えるよ、というある種、悪意に満ちた作品で、そのことが分かってもう一度見直すとその批評性というか、挑発性に思わず笑ってしまう。
(この項続く)

 
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そとばこまち「キャビア・ウーマン」@ワッハ上方ホール

そとばこまち「キャビア・ウーマン」(ワッハ上方ホール)を観劇。

結婚詐欺に遭い、居酒屋で酔いつぶれている主人公、鈴木正直(古澤直人)。そこへ現れた天王寺誠(上海太郎)と名乗る男。天王寺は詐欺で奪われた金を詐欺で取り返さないかと持ちかける。天王寺は通称『ダルマ』として警察にマークされている詐欺のプロフェッショナル。天王寺は表向き、心理演出アドバイザーとして塾を経営していた。しかしその実態は、詐欺のテクニックを指南する組織だった。正直はその塾に入門し、様々な詐欺レッスンをクリアしていく。そんな中、天王寺の教え子である美輪(後藤英樹)が出所。自分の仕掛ける詐欺は芸術だと豪語する天王寺は、過去に美輪の手段を選ばぬやり方を良しとはせず、美輪を嵌めたのだった。天王寺に復讐を企てる美輪、天王寺を追う警察、そして進められる正直の詐欺計画…。騙し騙され、追い追われ、最後に笑うのは誰なのか?

 そとばこまち「キャビア・ウーマン」初日を見てきた。劇団創立30周年記念公演(第3弾)ということでかつての座長、上海太郎が客演、というのが今回の最大の話題だが、その上海太郎は客演どころかほとんど主演に近いような獅子奮迅の活躍ぶりを見せた。なんといっても18年ぶりの古巣そとばこまちへの出演、しかもこれもいつ以来か分からないほどぶりのせりふ芝居。もともと、そとばこまち時代にせりふを覚えるのが苦手でそれで退団した後、台詞のない芝居をやる上海太郎舞踏公司をはじめたっていうのは有名な話ですが、今回はそれこそ尋常ではない台詞の分量。それでも一度か、二度微妙に噛んではいたものの頑張っていたと思う(笑い)。
 前半から中盤にかけてはそれこそほとんどひとり芝居のようにいろいろなことを次々とやって楽しませてくれるのだが(笑い)、まるで本人にあてがきしたような芝居だ、と終演後、本人にいったら「芝居をなんとか面白くしようと、いろいろアイデアを出したり、これをやりたいけどどうかなどと稽古場で提案したら、出番も台詞の量もどんどん増えてきて大変なことに」というのが本人の弁。今回も犯罪者役=詐欺師の役ということで次回(12月)のひとり芝居と重なるところがあるかも。「初日はもう自分のことだけで必死だった」という上海氏だったが、「せりふがなくて、動きだけだとどんなに楽かと思えたから、それは収穫」とも(笑い)。
 残念だったのは客席が半分くらいしか埋まってなかったことで、上海ファンの人だったらいろいろ面白いものが見られる貴重な機会なのでぜひ劇場(なんば・ワッハ上方ホール)に駆けつけてみてほしい。
 上海太郎以外にも日替わりのOBゲスト出演があるのだが、 初日は曽木亜古屋(料亭の女将の役をやっていました)。ねらい目は11日の5時からの回で、川下大洋、石原正一、藤原考一とかつての看板役者が顔をそろえる。(石原正一と上海太郎は入れ違いのはずなのでひょっとしたら初共演かも)
 それにしても不思議な劇団である。キャスティング表を見ると、現在のそとばこまちには座長の北川肇、女優の西村頼子、中西邦子、男優の後藤英樹ぐらいしか顔と名前を知っている役者はいない(しかもそれでいてキャスト表にはゲストを除いても22人の名前が並んでいる)のに、そして、クレジットはされてはいるけれど正直言って、作の中司、作・演出の坂田大地もそれっていったいだれ、という感じなのにそれでも達者とゆるさが混在している芝居の質感といい、どうにも役者芝居なところといい紛れもなくそとばこまちなのである。
 現在の座長である北川肇が8代目座長であるというのはどういう風にカウントしているのかが、よく分からないところがあるのだが、私が知る限りでも劇団の顔である辰巳琢郎(当時はつみつくろう)、上海太郎、生瀬勝久、小原延之と受け継がれてきた。
 その間に迷走と思われるような時期もはさみながらも、それが30年も続いてきたということはある意味、演劇界の七不思議にいれてもいいぐらいだ*1。もっともこの劇団が不思議なのは俳優が入れ替わる過程で新たな才能が登場してくることで、最近の例でいえば生瀬勝久が退いて、劇団が空白状態になるかと思うと今度はそれを引き継いだ小原延之がそれまでとはまったく異なる社会問題を射程にいれたシリアスな群像会話劇「丈夫な教室―彼女はいかにしてハサミ男からランドセルを奪い返すことができるか―」を発表してあのそとばこまちがと驚嘆させ、それで今度はその路線で一時代を築くかと思うと退団してしまう。
 政治になぞれえるなら、どうやらこの劇団はそれぞれタイプは異なるが個性が強く、作家性の強い上海太郎や小原延之のようなニューリーダータイプの主宰者がコントロールしにくく、それを継続していくのが難しいような性向が組織としてはあって、その意味では自民党を連想させるところがある。そして、新座長就任以降の北川肇のというか、そとばこまちの方向性を見ている限りは現在は保守本流への回帰というようなところがうかがえる。この芝居だけから判断するのはそとばこまちの場合、流れを見誤ることになりかねないので、軽率な判断は避けたいが今回の作品などからみると、その作風は若い人間が作っている稚拙さはまだあっても、生瀬座長時代に近い気がする。もっとも、最近はアトリエでの公演を重視していることを考えると、原点回帰は京都にアトリエを持っていた上海太郎以前の時代に規範を置こうとしている感もうかがえ、今回の上海太郎客演には中心メンバーのそういう意図が反映されているのかもしれない。目下のところはアトリエのインキュベート機能によって次世代の才能が現れるのを待っているということなのであろう。
 それにしてもこの劇団、誰かが関係者に膨大なインタビューを敢行して、その歴史の裏側を掘り下げるようなドキュメンタリーを書いたら、ノンフィクションとしても組織論としても面白いと思うのだが、だれか劇団創立40周年を目指してそういうの書いてくれないだろうか。「わが青春のそとばこまち」とか。いくらなんでも、この題名は臭すぎるか(笑い)。しんどそうだから、私が書きたいとは口がさけてもいえないのが残念(笑い)。
 
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*1:残りの6つがなんなのかは分からないが(笑い)

AI・HALL+岩崎正裕『ルカ追送〜中島らも「ロカ」より〜』@AI・HALL

AI・HALL+岩崎正裕「ルカ追送〜中島らも「ロカ」より〜」(AI・HALL)を観劇。

AI・HALL+岩崎正裕 共同製作
『ルカ追送〜中島らも「ロカ」より〜』
■原作/中島らも
■構成・演出/岩崎正裕
■出演/寺田剛史、奇異保、亀岡寿行、森本研典、石橋和也、金明玉、中田絵美子、中元志保、岡本康子

 中島らもの遺作となった小説「ロカ」を下敷きに劇団太陽族の岩崎正裕が作・演出したAI・HALLの劇場プロデュース公演である。小説の方は未読なためにどの部分までが「ロカ」によるものなのかはよく、分からないのだが、リリパット・アーミーの座付き作家として関西小劇場においても大きな存在感を示した中島らも*1への岩崎の思いがストレートに表れた好舞台であった。
 岩崎正裕は熱い男でそれが彼の魅力でもあるのだけれど、社会的な問題などを視野にいれた作品を舞台として上演するときには心溢れて言葉足らずというか、あまりにもダイレクトに対象に向かうそのアプローチが説教くさく見えてしまうこともあり、あるいは社会の不正義などへの岩崎の怒りが作品の構造を破綻させて、思いが空回りすることがあるのだけれど、この芝居では間に中島らもの「ロカ」というテキストが存在していることもあってか、シンプルながらもかえってそのストレートな思いが、熱くはあるのだけれど、描かれる対象である中島らもとの間に微妙な距離感を作りだしていて、芝居を見ていて思いがストンと胸におちてくるところがあった。
 舞台上に登場するのは中島らもその人ではなくて、あくまで絶筆となった小説「ロカ」のなかで中島らもが描き出した作家「小歩危ルカ」である。もちろん、この小説は中島らも自身が近未来私小説と命名したようにルカには中島自身を思わせるところがある。しかし、一方ではこの小説においてルカが68歳、ベストセラーとなった「死ぬまで踊れ」以来筆を折った作家とされているように事実とはまったく異なる虚構の設定を含んでいる。
 岩崎はここで原作の「ロカ」をそのまま戯曲化するわけでなく、それを中心に置きながらも、やはり、私小説的な要素を含んだ中島らもの小説やエッセイなどから引用したエピソードを巧みにコラージュし、絡ませあって、中島らもではないが、小歩危ルカでもない、そして逆に言えばそのどちらでもあるような架空の評伝劇をでっち上げてみせる。
 この舞台に登場する寺田剛史、奇異保、亀岡寿行ら男優たちは複数の人間が学生時代の、そして印刷会社で働く、あるいは作家として苦悩する、老人となった人物「小歩危ルカ」をそれぞれ演じるとともに、アンサンブルとして何役もを演じる形で、その周辺にいた人物たちも演じ分けてもみせる。そうすることで実際に小説で舞台であるいはエッセイで少しでも中島らもを知る観客はそこにはあえて、直接は描かれていない事実*2を想起させられることになり、中島らもでも小歩危ルカでもある魂のようなものと邂逅することになるのだ。
 中島らもへの追悼の意味をこめた舞台であることは間違いないだろうが、そういうものとしてありがちなお涙ちょうだいにはならず、あくまでも馬鹿馬鹿しく、劇中で「小歩危ルカ」がテレビで歌って大顰蹙を買ったということになっている「放送禁止用語ばかりをつなげた歌詞の歌」を皆で大合唱して芝居は幕を下ろす。芝居の表題を普通だったら「ルカ追悼」とか「ルカ追想」となるべきところをあくまで「ルカ追送」としたのは最後まで反権力そして非常識の人を貫いた最後の無頼派作家、中島らもに対する岩崎の思いがこめられているのだろう。そんなことを考えながら、この馬鹿馬鹿しい場面を見ていたら、泣くような場面では全然ないのにもかかわらず不覚にも涙が出てくるのを抑えることができなかった。
 この舞台においては男優だけでなく、中島らも(あるいは小歩危ルカ)の周辺を彩る女性を演じた女優陣も魅力的。小説「ロカ」のヒロインである古沢ククを演じた中田絵美子は初めて見た女優だが、一見不思議ちゃん的キャラでありながら、その中にしっかりとした芯を持つこの役柄をみごとに演じて、鮮烈な印象を残した。
 全体としてのキャスティングが非常によかったわけだが、なかでも特筆すべきことは女優、岡本康子の凛とした演技であった。関西小劇場界では演劇制作者*3として知らぬ人はいない彼女だが、元々は劇団★新感線の女優であった。残念ながらそのころの彼女の演技は見ていないので、私にとっては彼女はあくまで制作者であり、大阪の劇場でよく目にする笑顔で受付をしている美人の制作のイメージしかないので、最初は舞台で見ても中島らも(あるいは小歩危ルカ)の妻の役を演じているあの女優さんはだれだろうか、どこかで見た記憶があるのだけれど顔は知っているのにダイレクトに結びつかず、そのうち岡本康子さんに似ているということに思い当たったのだけれど、まさか本人だとは「このキャスト表に出ている岡本康子っていうのはあの岡本さんですか」と終演後のロビーで作・演出の岩崎本人に挨拶して確認をとるまで半信半疑だった。
 岩崎によれば20年ぶりの舞台らしいが、そんなことはまったく感じさせない堂々とした女優ぶりに感嘆させられた。確認はとってないけれど、元新感線だったということはおそらく彼女も岩崎同様大阪芸大の出身かもしれない。
いろんな思いがあっての女優復帰だと思うので、再び舞台に立つことはしばらくないのかもしれないが、できるものなら近いうちにまた女優、岡本康子の演技が見てみたいと今回の舞台を見て思ってしまったのである。
 土曜日、日曜日とこの芝居は上演されるが、この舞台必見である。  
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*1:学科は違うけれど岩崎にとっては大阪芸術大学の先輩にもあたる

*2:たとえば、中島らもがどのような形で亡くなったのかなど

*3:演劇プロデューサーとして岩崎正裕、深津篤史と一緒に精華演劇祭の企画委員もつとめている

レニ・バッソ「ショートピース・アンソロジー」@森下スタジオ

レニ・バッソ「ショートピース・アンソロジー」(森下スタジオ)を観劇。

小澤剛 振付演出作品 「So So」 20min
堀川昌義 振付演出作品 「ガジェット」 20min
北村明子 振付演出作品 「パラダイスローグ」 -Work in progress. 50min

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反芸術アンパン (ちくま文庫)

反芸術アンパン (ちくま文庫)

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「踊りに行くぜ!!」in広島@広島市現代美術館

踊りに行くぜ!!in広島広島市現代美術館)を観劇。

空 律江「水に絵をかく」振付・出演 空 律江
国本文平「a Woman within a Man」振付・出演 国本文平
セレノグラフィカ「カケラ・改行・断章」振付:隅地茉歩出演:セレノグラフィカ+二口大学
KENTARO!!「井上君起きて、起きてってば!!」振付・出演 KENTARO!!
康本雅子「ナ花ハ調」振付・出演:康本雅子

 「踊りに行くぜ!!」in広島を見に来たのはこれが3回目。今年も昨年同様に山の上にある現代美術館「広島市現代美術館」を会場に公演は行われた。
 広島の「踊りに行くぜ!!」の特徴は毎年「なんなんだこれ」という変なものが登場してくることだ。身体表現サークルがその代表であるが、相当にキャリアのある現代美術作家・パフォーマーで昨年(2005年)なぜか突然「踊りに行くぜ!!」に登場した美音異星人*1の珍妙なパフォーマンスはそれ以上に「なんだこれ」*2で思わず目が点になってしまった。もっとも美音異星人の場合は作品そのものよりも終演後に話した本人の方がもっと変で思わず笑ってしまったのだが。確かにコンテンポラリーダンスはアートジャンルとしてはほとんどノンジャンル・フリーフォームといえなくもないのだが、そうはいっても「これはちょっと違うだろう」というものまでがなぜか出演してしまう、そんな奔放な無秩序さのエネルギーが広島の「踊りに行くぜ!!」からは感じられるのだ。
 今年の公演のなかでそうした「変てこパフォーマンス」の系譜を確かに受け継いでいたのが、国本文平「a Woman within a Man」であった。ダンスなのかどうかがかなり怪しい美音異星人とは違って、これはソロのダンス作品ではあるのだけれど、一見どうも奇妙に気持ち悪い。大野一雄をわざわざ持ち出すことをしなくても、最近の例でもトヨタコリオグラフィーアワードにノミネートされた山賀ざくろの「へルター・スケルター」とか伊波晋とか、男性のパフォーマーが女性のキャラクターを演じるというダンスはあるのだけれど、国本文平のはそういうのと微妙に違う。女装というか、国本は女性の黒のアンダーとワンピースを着て、踊るのだけれど、最初の床に寝た状態のような姿勢で手と足をくねらせて踊るところとか、きわどい開脚のポーズとか、動きが妙に女性的。それまであまり考えたことはなかったが、日舞阿波踊りに「男踊り」「女踊り」があるようにフリーフォームであるコンテンポラリーダンスのなかにも男踊りと女踊りのように性別によるムーブメントの差異というのはあって、この国本のダンスの動きはそのうちの「女踊り」の部分を意図的に取り出して踊る。国本の身体は筋骨隆々のマッチョな身体ではなく、男としては珍しいほど、すらっとした中性的な姿態といえなくもないのだが、それでもそれが女性のような動きで踊ると、どうにも気色が悪いのだ(笑い)。
 もちろん、そういう意味でいえば山賀ざくろの演じる女子高生も、伊波晋の演じる女性も気持ち悪いには違いないが、彼らが女性を演じる時には例えば歌舞伎の女形の型のようなこういう風に演じると、女性みたいに見えるという型が確かに入っていて、そこには「型」の持つ力ゆえの安定感が感じられるのだが、国本の踊りにはそれがなく、それゆえにいたたまれないような不安定感がそこには表出される。その微妙なゆらぎのなかから、通常は不可視であり、意識化されにくい男女の身振りの違いが男の身体=女の動きの二重性のなかに宙吊りにされるようなところがあって、そのことが国本のダンスを見ながら、ダンスにおけるジェンダーの問題をあらためて考えさせられることになった要因で、そのコンセプトには非常に刺激的なところがあった。
 「コンセプトには」と書いたことには理由がある。実際の舞台ではパフォーマーとしての国本の力量には現時点ではあきらかに技術的な問題がある。コンセプトに沿って意識的にきめ細かく動きが作られている部分と、そうじゃなくて男性である素の国本の身体が露わになってしまっている部分がこの作品中には混在している。そうなっているのが身体性の違いの表現として、意識化されたものならそこにも違う面白さは出てくるはずだが、舞台を見て判断する限りはそうじゃなくて、作りきれていないという風に思わざるをえない。
 国本は広島大学ジェンダー論を学んでいる20歳の学生であり、本人は「そういう(ジェンダー的な)主題がこの作品には盛り込まれている」と語り、その意味では先ほど書いたコンセプト的な部分はかなりの程度意図的なものなのだが、実際に作品を見ての印象では若い男性である国本が「女性の下着を着て踊ることの快楽」というどちらかというとジェンダーではなくてもう少しフェティッシュな部分がダンスのそこここから透けて見えてくることで、その微妙な混合具合がこの舞台の怪しげな魅力(気持ち悪さも含めて)になっていた。
 見るからに頼りなさげな風貌ながらも、入学時にはなかったダンスサークルを自分で大学に作り仲間を募って、作品を振りつける大学のダンスコンクールにも積極的に参加するなど意外とバイタリティーもあり、なんといってもまだ20歳という若さが魅力。15歳でバレエを習いはじめたきっかけが映画「リトル・ダンサー」を見て「これだ」と思ったからだったり、身体表現サークルを見てやはり「これだ」とコンテンポラリーダンスをはじめたりといういい意味での節操のなさも含め、今後ここからどんなものが出てくるか。楽しみな才能が出てきた*3
 一方、もう1人の地元選考会選出組の空 律江「水に絵をかく」ははるかに真摯に作品つくりに取り組んでいるのだが、国本のインパクトの前にやや影が薄くなってしまった(笑い)。もっとも彼女の場合も国本同様作品ということでいえば「まだこれから」と言わざるをえない。というのはどうやら彼女の場合にはダンスのほかにパントマイムの経験が少しだけあって、この作品はマイムとダンスのアマルガム(混合)といった趣きなのだが、
ダンスとマイムには表現の方向性に明確な違い*4があって、それをもし組み合わせるとすると、その違いを明確に意識したうえで、自分の立ち位置をどうするのかをはっきりさせる必要があるのにどうやらそうなっていないからだ。そのために結果としてはどっちつかず(つまりダンスにしてはイメージの飛躍に乏しく、マイムとしてはディティールや作品構造の意味性に欠ける)ものとなっていて、そこがもどかしくて「要するにどうしたいの」という気分になってしまったのだ。もっとも、私の場合、以前から上海太郎、水と油、沖埜楽子、いいむろなおきらマイム系のパフォーマーと付き合ってきて作品も数多く見てきた経験から、マイムの要素が強い作品についてはどうしても彼らのレベルを基準に考えてしまい点数が厳しくなってしまうきらいがあるのだけれど。
 何度も再演を繰り返す機会を提供することで作品が成熟していく過程を見られるのも「踊りに行くぜ!!」の魅力で、康本雅子「ナ花ハ調」は福岡、KENTARO!!「井上君起きて、起きてってば!!」は松山でそれぞれ一度見た作品であったが、いずれも作品を練り直していくことでの進化が感じられた。今回の広島公演全体のなかでも特筆すべき出来栄えと感心させられたのがKENTARO!!の作品である。松山の時には単純に面白い、楽しいっていう印象だったのだが、今回はそれに加えて、特に音がなかったりするようなヒップホップではあまりないような状況での演技に格段の深みを感じさせられて、思わずグッとくるような場面がいくつかあった。彼の場合は音楽に合わせてラフに自由に踊るようなところの表現に魅力があって、そこには例えば近藤良平伊藤キムに時折感じられるようなスター性、あるいは華があって技術的なことよりそういうところに引き付けられるのだけれど、この日はそれ以上に普通の意味では踊ってない音のないところの表現に魅力を感じた。
 康本雅子「ナ花ハ調」も福岡に続いての2回目の観劇となったが、ほとんど違う作品かと思うほどの進化をしていた。ムーブメントはこの人ならではというもので魅力的なのだが、パフォーマーとしての端倪すべからざる才能をこの日感じたのは実は当初の構想にはない場面であった。この作品の後半で康本は水の入ったコップを小道具として舞台上に持ち出し、最初にその水を口のなかに入れて吐き出したりした後で、そのコップを舞台の手前の観客のすぐ前に置いて、そこから少し離れた舞台奥で踊りはじめる。本来はこの後で踊りながら、舞台の手前の方にやっきて、その水の入ったコップにつま先を突っ込むのだが、この日は違った。どういうわけか、この日はいつの間にかコップが倒れていて、水が床にこぼれていたのだが、康本はその舞台にこぼれていた水に足を突っ込んで、つま先で水をかきあげ、舞台上に跳ね上げて飛ばしたのである。この部分はきわめて自然な流れであり、終演後も鮮やかにその飛び散る水のイメージが記憶に残るほど印象的な場面だったので、振付を変更したのかなと思ったのだが、実はそうじゃなかったことが後から確かめてみて判明した。コップは夢中で踊っている康本の足に一瞬触れて倒れたので要するにまったく予期していない事故だったのである。つまり、この日の康本は、コップに足を入れる代わりに、コップが倒れてこぼれている方の水の方に足をいれて、水と跳ね上げたわけなのだが、それは咄嗟の判断によるアドリブだったのである。おそらく、計算されたものというよりは本能的な選択だと思うのだが、だれにでもできるというようなことではないと思った。そういうことをさりげなくやってしまえるところにダンサー康本雅子のただものじゃなさを感じた。
 一方、セレノグラフィカ「カケラ・改行・断章」は二口大学が演じる落語「火炎太鼓」とセレノのダンスとのコラボレーションとでもいったらいいのだろうか。トヨタコレオグラフィーアワードの受賞公演として上演した作品を練り直したものだが、私はエジンバラに行っていたせいで、その時の公演は見ることができず、今回が初めての観劇となった。セレノの精緻に作りこんだデュオの世界とは雰囲気の異なるなかなか楽しい舞台であった。
 このデュオの本来の持ち味とは違うので、もう少しじっくりとダンスそのものを見てみたいという不満がないではなかったけれど、さすがに表現されているもののクオリティーの高さや安定感は抜群であり、「踊りにいくぜ!!」in広島全体のなかではいいアクセントになっていたのではないかと思った。
 実はこの日参加した打ち上げの2次会の席で、この日上演されたばかりの舞台のビデオ映像を見ながら、出演していたダンサー本人に「この時はこうだった」とか「ここで失敗した」「ここは踊っていて本当に苦しくて限界だった」というような感想を聞くことができたのだが、これまで終わった後で「あそこではどうだったの」などと聞くことはあっても、本人の解説つきでその公演の映像を見るなどという機会はあまりなかったので、それはある意味本番の公演以上に刺激的な経験であった。ただ、帰りの電車の関係でセレノと康本に関してはその時には話を聞くことができなかったのは残念だった。
 もちろん、リアルタイムにそれをやるためには映像とはいえ、幕間の部分などをスキップして飛ばすことはできても、本番と同じだけの時間が必要なわけで(笑い)、そんなに簡単にできることではないとは思うが、だれかそういうのを企画してくれる人がいるとけっこう面白いのではないかと思ったのだが、どうだろうか。もっとも、ビデオ映像で初めて見るので集中して見たいというような人がその中に混じっていると、その人にとっては本人への質問や突っ込み自由の映像観劇というのは集中して見ることの妨げにしかならないということもあるし、なかなか成立しうる状況の想定が難しくはあるのだけれども。  
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*1:http://www.geocities.jp/bion_esper/top.html

*2:これは別にすごく面白かったというわけではないから勘違いしないように(笑い)

*3:もっとも、実はこいつは実は阿呆なんじゃないかと思わせるところもあって、天才と阿呆は紙一重という危うい感じも彼からはぷんぷんと匂ってくるので、本当に期待していいのか今のところ半信半疑にならざるえないところもあるのだが(笑い)。それも含めて第二の身体表現サークルに化ける可能性はなくはない。

*4:簡単に言えばダンスは抽象性に向かって跳躍するが、マイムはその本質は具象(つまり模倣)であるということ

DANCE CIRCUS36(1日目)

DANCE CIRCUS36(1日目)(アートシアターdB)を観劇。

野口知子「私にお時間下さい。」作・出演:野口知子
ラルコバレーノ「ハンミョウゾクButterfly」
 出演 :松岡えりか・松岡ゆりな音楽 :松岡ゆりな・Soul Decoration 演出 :ラルコバレーノ rarcovaleno・松岡安里紗智  
新宅一平 「未定」 作・新宅一平
柳本雅寛「ユクトークルトー」振付・出演:柳本雅寛 友情出演:大友マコ
林正美 「即興」作・出演:林正美

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DANCE CIRCUS36(2日目)

DANCE CIRCUS36(2日目)(アートシアターdB)を観劇。

おたまじゃくS(森田紗希×中山藍)『ima aoi』  作・出演:森田紗希、中山藍 衣装:小林大輔、大藤千恵子、森田賢祐
spino 『 window 』 作・出演:塩崎有妃子、植村洋朱
昇花ロケット『Are you…?』 作:山上恵理 出演:足立七瀬、山上恵理
内山大 『椅子、男』 作・出演:内山大
升田学『イリノコトワリ』  作:升田学 出演:升田学、田中慎也 音楽:安田寿之

 この日の最大の注目は維新派の役者、升田学が初めて自作のパフォーマンス作品を発表したことであった。「イワノコトリ」は日常的な仕草を採集(サンプリング)し、張り合わせてリミックスするような形で構成・編集したような作品で、それをやはり、サンプリングリミックスを駆使したような安田寿之の音楽に合わせて展開していった。最近、維新派を退団して現在は音楽活動をしている田中慎也との共演によるデュオ作品であった。
 升田学は維新派の前々作「キートン」では主役であるキートン役を演じた看板俳優のひとり。実は維新派の「1/30」など本公演以外の舞台では維新派の作品の一部として自らが作演出したものを創作・披露したことは何度かあって、単なる1パフォーマーにとどまらず作品の作り手としての意欲も持っていることは以前から知ってはいたが、こういうような形で現役の維新派の役者が自作の作品を外部向けに発表するということはこれまではあまりなく、その意味ではどんな作品を作ってくるかが注目された。
 パフォーマンスとは書いたが、これは維新派として発表した作品と比べると、動きの処理などで維新派メソッドの応用などももちろん入っているが、ミニマルな動きとはいえ、維新派特有のボイスなどはなく、コンテンポラリーダンスといっていい作品でもあった。作品にはナラティブ(物語)はなく、アブストラクトな要素が強いものではあるのだが、動き自体はいわゆる既存のダンスムーブメントではなく、安田寿之のオリジナルの音楽に合わせて「トイレで座る」「ドアをあける」「モップで床掃除をする」……というような日常的な動きのなかから、升田が気になっている動きを採集。これをある時は田中とのユニゾンの動きにしたり、少しずつずれたりさせながら、音楽でいうリミックスのように何度も何度もフレーズを繰り返したり、いろんな形でつなぎ変えたりして、その仕草がもともと持つ意味性のようなものを剥奪していく。12分の作品だが、このままだとやや単調で、ここからどう展開するのかがみたいというのが正直ないではないのだが、初めて上演したダンス作品としては今後の可能性を感じさるものであった。
 これまでは維新派の現役の役者たちが自分の作品を発表することはあまりなかったのだが、この日は観客としても維新派のメンバーが大勢姿を見せていたこともあり、これをきっかけに升田以外のメンバーもDANCE CIRCUSで自作を発表することになれば、関西のコンテンポラリーダンスにとってもいい刺激になるのにと思った。
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DANCE CIRCUS36(3日目)

DANCE CIRCUS36(3日目)(アートシアターdB)を観劇。

flaneurs  『 カンカ 』 作・出演:flaneurs(〓橋温子、関原綾乃)
木原アルミ  『 影とカゲ 』 作・出演:木原アルミ 
森田海瑞瑤(かずよ)  『 灯−トモシビ- 』 作・出演:森田海瑞瑤(かずよ)
Ensemble Sonne  『 Fragment 』 振付・構成・演出:岡登志子 音楽:稲田誠 出演:伊藤愛、岡本早未、山岡美穂他
齋藤亮  『 mercurochrome 』 自作自演:齋藤亮

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デス電所「夕景殺伐メロウ」@精華小劇場

デス電所「夕景殺伐メロウ」(精華小劇場)を観劇。

 前回公演「音速漂流歌劇団*1から約1年ぶりのデス電所本公演である。「音速漂流歌劇団」のレビューではクロムモリブデン少年王者舘の2劇団に酷似したところが散見され「自らのスタイルを確立したとはいえず、いまだ模索中なのではないか」と書いたのだが、今回の「夕景殺伐メロウ」では好きゆえの模倣というレベルからは完全に抜け出して、自分たちならではのスタイルを確立しつつあることを確認することができた。これまでに見たこの劇団の作品としてはベストアクトといえると思う。
 舞台の上手にブースがあり、そこに音楽を担当する音楽・演奏の和田俊輔が陣取っていて、全編が和田の生演奏のオリジナル音楽によって進行していく音楽劇というのが、この劇団の最大の特徴であろうか。オリジナルの音楽の生演奏(和田俊輔)と劇作(竹内佑)の関係では維新派の内橋和久・松本雄吉がまず連想されるが、和田俊輔の場合はミュージカルのパロディなど、劇中で使用する音楽ジャンルの幅広さからいえば劇団☆新感線の岡崎司・いのうえひでのりと似ているといっていいかもしれない。ただ、世代の違いもあってか、岡崎=いのうえコンビのテイストが基本的にはハードロックを基調にしているのに対して、和田の作る音はもう少し今風であるところに大きな違いがあるが、そういう点で考えれば今回東京公演の制作をヴィレッジが担当したりと、いのうえがこの集団に肩入れしてるというのはよく分かる。
 もっとも劇作自体のスタイルでは竹内佑といのうえひでのり(あるいは中島かずき)との間には大きな違いがある。劇団☆新感線の舞台が分かりやすいナラティブ(物語)を中心にして進行していくのに対して、竹内のはそうではないからだ。
 この「夕景殺伐メロウ」では冒頭の少女(山村涼子)が額縁(絵)のなかの少女(奥田ワレタ)と会話を交わす場面からはじまり、コント風のシークエンスや「劇中劇」として上演されるミュージカル風、活劇(ゲーム風)の場面まで一見無関係にも思われる複数の場面がコラージュ風に同時展開していく。
 2人の少女の場面ではリリカルに最後に額縁の少女が見たという夕日のイメージが繰り返して語られ、逆にコント風の場面ではいかにも「オタク」風の登場人物が現れて、馬鹿馬鹿しい会話を交わす。デス電所の舞台について語る時にはモチーフとしてのオタク性*2というのは欠かせない要素であり、そこのところがクロムモリブデン少年王者舘、あるいは先ほど言及した劇団☆新感線との大きな違いである。もちろん、前述の3劇団にもカルトともいえる作者の趣味性を作品に強く反映させるような部分で、いわゆる「オタク」との共通点はあるのだが、例えばクロムモリブデン青木秀樹の映画に対する趣味性などは「オタク」的ではあっても、彼らは「オタク世代」ではないので竹内が提示してくるようなものとの間には質的な違いがあるからだ。
 私自身は「オタク世代」ではなく、いのうえひでのりらと同世代なので、この辺の微妙な差異については「いわくいいがたい」部分があるのだが、竹内がその劇作において「オタク」的なものをどう扱っているのかということは非常に興味深い部分がある。というのは、この芝居では指導者であるらしい「先生」の指示のもとに世界を「萌え」であるか「萎え」であるかを分類している人々とか、やはり、「先生」の指示のもとに「ボーイズラブ」についてのブログを制作している人たちとかが登場して、竹内はそれを笑いというか、揶揄の対象として描いているのではあるが、それは外側の目から「オタク」を変な人として排除しているような笑いではなく、自らも「オタク」であると自任したうえでの自虐的なギャグとしてそれをやっているような自己パロディ性がうかがえるからだ。
 つまり「オタクによるオタクのためのオタク演劇」というのがデス電所「夕景殺伐メロウ」ではないか、と思うのだ。そうであることのひとつの根拠となりそうなのが、モチーフとして登場する「オタク的なるもの」だけではなく、この「夕景殺伐メロウ」という作品の構造そのものが持つ「オタク的なるもの」との近親性である。
(以下ネタばれあり)














 それは「セカイ系」の物語との近親性である。「セカイ系」については以前五反田団の「ふたりいる景色」のレビュー*3で少し解説したから興味のある人はそちらの方を参照してほしいが、要するに「新世紀エヴァンゲリオン」のような構造を持つ物語のことだと思ってくれていい。
 「夕景殺伐メロウ」で描き出される世界は多重の入れ子のような構造をとっている。まず、物語の基調をなすのはオタク的な登場人物が「世界にあるものを『萌え』と『萎え』に分類していく」とか「美青年風のキャラといかにもオタク風の風貌の男性の2人がボーイズラブについてのブログを製作している」といったオタクコント風の場面、さらに「地球に近づくつつあるらしい太陽の大きさを観測している男女」の場面。しばらくすると、これらの人々は「粒子」というカルト的な集団のメンバーで「先生」という指導者の命令のもとにこれらの行為を行っているのだということが明かされる。ここにはSF的であったり、終末論的であったりする匂いがにおうし、太陽が近づくことで終末を迎えようとする世界の出来事という設定にどうやらなっていて、それが額縁のなかの少女が叫ぶ「夕景」という言葉と響きあう。
 ところがこの世界に殺戮天使(?)に扮した黒い服を着た女(羽鳥名美子)が乱入してくることで、この世界は再び変容する。どうやら、ここは近未来の滅びつつある世界ではなく、現実の世界であり、この「粒子」という集団はもともと「犯罪被害者の会」の人たちが作った集団がカルト化(狂信化)したもので、終末論的な世界というのはあくまで彼らの集団妄想。「先生」の言葉は額縁の少女と冒頭で話していた少女が「先生」の言葉として取り次ぐものなのだが、額縁の少女の場面で「絵は話をすることはない、私はあなたが話させてるのよ」というような言葉が何度も繰り返されるように「先生」というのが実際に存在するのかどうかさえはっきりとしなくなってくる。
 舞台の後半部分では「先生」の命令により上演しなさいと言われたという演劇の場面が「劇中劇」として提示されて、そこでは下ネタ満載のめちゃくだらない*4ミュージカル場面と黒服の女が上演させる皆殺しの芝居などが交錯、ここで一度はこのカルト集団が犯罪者への復讐のためにその家族を追い詰め挙句の果てに殺していることが明かされる。
 ところが舞台の最後になって再び物語は逆転。この少女は実は放火によって妹を含む家族を焼き殺していて、この物語全体がこの女の子が記している嘘日記のブログのなかの彼女の妄想だということが明らかになるからだ。
 この舞台はおそらく現実世界で起こった事件のうち、ネットアイドルの放火事件と奈良の少年の放火殺人事件を元に構想されたものではないかと思われるが、作家の関心は現実の事件そのものというよりは「放火」ということが連想させるイメージに触発されたのではないか。最後の場面で実は「夕景」と思われた額縁の少女の話す情景が実は火事によって火に巻かれた死んだその少女が死ぬ前に見たかもしれない最後のイメージだということが明かされる。ただ、この芝居のなかではそれさえも残された方の少女の妄想なのか、それとも実際にそうなのかは判然とはしない。というのはこの舞台のなかで何度か主人公の少女がマッチを擦りながら叫ぶからで、これは明らかに「マッチ売りの少女」なわけで、考えてみればアンデルセンのあの有名な童話もマッチをすることで貧しい少女が一瞬見られる妄想の物語と読み取ることもできる。つまり、ここには「妄想」⇔「マッチ」⇔「放火」の連想が働いていて、それがこの舞台のイメージを支配しているということもできるからだ。
 さて、いささか長い前置きになってしまったが、ここまでくれば「新世紀エヴァンゲリオン」と「夕景殺伐メロウ」の構造の類似性は明らかであろう。この2つの物語はどちらも自意識過剰の少女(少年)の妄想の世界を描いたもので、ネット上のフリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』の定義のように狭い意味での「セカイ系」が

「世界」(セカイ)には一人称の主人公である「ボク」と二人称となるヒロインあるいはパートナーの「キミ」を中心とした主人公周辺しか存在しないという設定の元、救世主である主人公周辺の登場人物の個人的行為や精神的資質・対人関係・内面的葛藤等がそのまま「世界」の命運を左右していくという形で物語が進行していく作品スタイルを指す。

とするのならば「夕景殺伐メロウ」を「セカイ系」というにはいささか語弊があるのだが、ヒロインである戦闘美少女が登場する「セカイ系」の物語を少年の妄想系物語とすることができるとすれば「夕景殺伐メロウ」はいわば少女による妄想系物語で、「妄想の中身」自体は異なっても、この2つの物語はほぼ同一の構造を持つ双子のような存在と考えることもできるからだ。
 そして、いずれも物語においても本来「入れ子」であるはずの「妄想の外側=現実界」はその存在があることが暗示されはしてもはっきりと明示されることがない。そういえば現実(放火事件)を暗示しながらも、マナ・カナを連想させるネーミングとそっくりな服装から双子を暗示させる妹の存在も「額縁の女」=妹との会話の場面が明らかに主人公の妄想だということからしても、妹(=主人公の影)つまり自分との会話との解釈も成り立ち、その場合はこの物語全体が外側を持たない「妄想の塊」という風にも見なされ、『萌え』と『萎え』の境界線が殺戮天使の存在によって無化されていくように「妄想/現実」の2極対立は無化されてもいく。こうした「妄想の極北」には天野天街が存在すると思うので、表面的な類似は薄れた今回の作品だが、演劇における世界観という意味ではやはり深い影響関係は続いているのかもしれない。
 


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シャッツカマー(schatzkammer)「レインコード」@京都アトリエ劇研

シャッツカマー(schatzkammer)「レインコード」(京都アトリエ劇研)を観劇。

[構成・演出]森本達郎/夏目美和子
[振付・出演]松本芽紅見/野田まどか/夏目美和子

 schatzkammerは構成・演出の森本達郎とバレエダンサーの夏目美和子によって結成されたコンテンポラリーダンスユニット。もともとは映像も多用するようなマルチメディアパフォーマンスも志向しており、「表現手段として映像・ダンス・音楽などの要素を柔軟に用いて、人間の暮らしや社会の風景に潜む’おかしみ’や’哀愁’といったものを抽出し、そこから新たな世界を作ることを目的とする」というようなことをコンセプトとして提唱していた。
 旗揚げ公演と目された2002年12月の「さくら荘」という作品は見ていて、これがけっこう面白かったので、お薦め芝居などでもj.a.m.Dance Theatreと並べて「関西の若手カンパニーでは京都のシャッツカマーとともに今後が楽しみな存在で、まだまだこれからという点はあるけれども、カンパニー志向の集団は関西では珍しいので頑張ってほしい」と期待をかけていたのだが、2004年に大阪のギャラリーwrks.でした公演を最後にどうやら森本達郎が活動休止。その後、しばらくは夏目美和子の単独での公演などにschatzkammerの名を冠していたことはあったが、その存在は急速にフェードアウト状態となっていた。 
 そういうわけでひさびさの復活公演となったわけだが、これが本当に期待にたがわぬ好舞台であったのだ。関西ダンス界の今年最大の収穫といっていいかもしれない。この作品では映像はいっさい使われていないのだが、それでも普通のダンスとは異なる志向性によってこの舞台は構築されていた。この舞台を見て改めて分かったのschatzkammerにおいての森本達郎の存在はきわめて大きいということだ。森本の場合、振付をするわけではないので、「さくら荘」などでもいったい何をしているのかということが必ずしも明確には分からなかったのだが、この「レインコード」と夏目が単独で上演した作品を比較してみると、クレジットでは連名により[構成・演出]と提示されてはいても、
このユニットでイニシアチブをとり作品の方向性を決めているのは森本であることははっきりと見えてきた。
 森本による演出はダンス的というよりも、誤解を恐れずにあえて言えば、美術的ないし絵画的な印象。舞台装置のいっさいないアトリエ劇研の空間はブラックキューブを思わせるのだが、この無機的ともいえる空間に照明の効果を存分に活用して、光と闇の空間を作っていき、そこにダンサーをある時はまるでオブジェのようにまたある時は生身を感じさせる人間として、配置し、ある時は動かしていくことで、空間を造形していこうという強い意志のようなものをこの作品からは感じた。
 冒頭暗闇のなかからほのかな光が浮かび上がってきて、そのほとんど見えるか見えないかの境界線のようななかで、白い衣装のダンサーがくるくるとゆっくり旋回してその速さを微妙に速めていくところからこの作品は始まる。
そして、それがしばらくすると暗転して、また同じような動きが続いた後、今度は空間中の一カ所だけ明かりが入ったところにうずくまったようなダンサーがいるのが見えたかと思うとまた暗転。しばらくはそれがだれなのかもおぼろげにしか分からないためにこういうダンサーの動きや表情がほとんど見えない照明に関してはそれを安易に多用するともっとちゃんと見せてくれよとか思ってしまうのだが、不思議にこの舞台に関していえばそういうことはいっさいなかった。
 それはそれがクリシェめいて感じられる場合は往々にして踊っている方がそれが実際にどう見えているのかについての自覚があまりないのではないかと感じることが多いのに対して、ここにははっきりとした美学が感じられたからだ。
 バレエダンサーでバレエ団ではじゃれみさの寺田みさこの後輩にあたる夏目美和子はもちろんそうだし、アローダンスコミュニケーションの松本芽紅見も関西で屈指のいわゆる身体の利くダンサーなのだが、前半部分のムーブメントはシンプルかつミニマルなもので、ダンスにおけるテクニック的なものを誇示するような動きはいっさいない。それなのに見る側がそれを飽きないで見ることができて、舞台上にもある高いテンションのようなものが漲っていた。
 もうひとつ感心させられたのは夏目のソロダンスなどを見ているとどうしても無意識に動きの処理のなかでバレエの動きが出てきたり、あるいは松本芽紅見にしてもどうしても無意識によくでてくる得意な動きというものがあるもので実は以前にやはりschatzkammerを冠してこのアトリエ劇研で上演された松本、夏目のデュオなどでもそういうことは散見されたのだが、この作品では一連の動きのなかに統一感があり、だれかひとりが振り付けてそれを振り移したわけではないのにそういう個人の属人的な動きがかなり周到に排除されていて、それぞれソロ作品ではあまり見ないような動きが3人のダンサーの関係性のなかから生み出されていたことだ。初めて参加した野田まどかについても同じようなことがいえ、さらに彼女の場合は最近の作品では感情を爆発させるようなダンスが多いのにもかかわらず全体に抑えた調子でありながら、この作品のなかで見せる表情がきわめて印象的なことが何度かあって、そういうものが引き出されていることも見ていてすごく刺激的だった。
 ただ、惜しむらくは前半の部分に流れている静謐感のある張り詰めた世界がこの上演では後半、ダンサーたちが詩のようなテキストを読み始めたり、歌を歌ったりしはじめる場面になるとなくなってしまうことで、後半の部分には後半の部分だけを単独で取り出せば面白いところも十分ありはするのだが、大きな流れのようなものが途切れてしまったように感じられたことだ。
 実はそこに至る前に3人のダンサーがそれまで着ていたレインコートのような衣装を壁にかけたところで、舞台が一度暗転するのだが、ここは途中の場面というよりはそれまでの場面がそこで終止符を打たれるという印象が強かったこともあって、作品がそこで終わったと思い、「これは今年のベストの作品かもしれない」と興奮して拍手を準備していた。
 ところがそれ以降も作品が続くし、作品の雰囲気もその後と前では違うので、自分のなかではもう終わってしまっている作品について一度切れた糸を繋ぎ直すのは正直言って難しかった。個人的にはこれは本来、別々の2本の作品として成立するはずだった要素を1本の作品に入れてしまったことから起こった構造的破綻に見えてしまったのだが、どうだったのだろうか。後半がないほうがいいと思ってしまうほどに前半部分の完成度の高さが抜群だったと感じられたせいもあるのだが。いずれにせよ、これで再び関西の若手ダンスカンパニーの期待度トップ候補に躍り出たschatzkammerの見事な復活に快哉を叫びたいと思う。 
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毛皮族「コーヒー&シガレッツ的な軽演劇 演目D『OSOBA』」@リトルモア地下

毛皮族コーヒー&シガレッツ的な軽演劇 演目D『OSOBA』」(リトルモア地下)を観劇。
 前回公演の「脳みそぐちゃぐちゃ人間」でかなり厳しい評*1を書いたのだが、今回見た舞台はよかった。もっとも、今回の公演は複数演目を日替わりで上演するプログラムなのでほかの演目がどうなのかは分からないのだが、この日の舞台を見てほかの日のも見たくなったし、東京に住んでいないのでそれができないことを今回ほどもどかしく思った舞台というのもこれまであまりなかった。芝居としてはアドリブが多くてゆるい出来栄えの芝居ではあるのだけれど、まずなんといっても江本純子が本当に楽しそうなのがいい。このところ、IMPホール、本多劇場と中劇場での観劇が続いたせいもあるのだが、レビューを中心とするスペクタクルというのも確かにこの集団の魅力とはいえるのだが、レビューシーンなどに代表されるアイデアに裏打ちされたパワーと裏腹の一種独特のゆるさも毛皮族の魅力であったなというのを、この日の舞台を見ながら、六本木将軍でのクリスマスオールナイトイベントのことなどを思い出して、改めて再確認できたからだ。

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『DANCE TRIENNALE TOKYO '06』@スパイラルホール

『DANCE TRIENNALE TOKYO '06』(スパイラルホール)を観劇。

◆ J program 2006.11.19 (Sun) 18:00〜 スパイラルホール
●美加理×種子田郷「生のものと火を通したもの・闇の碧」 【日本】
●マシモ・モリコーネ「#06&#07.2006 skin-fatman/littlebastard」【イタリア】

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「踊りに行くぜ!!」in青森@青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸のレビューhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061013を執筆。

JCDNによるコンテンポラリーダンスの全国巡回公演「踊りに行くぜ!!」だが、今年こそは全部の会場のレポートを書くぞって始まる前にははりきっていたのだが、だいぶ前に最初の福岡のレポート*1を書いて以降、忙しさにかまけて更新できないでいた。やっと、「踊りに行くぜ!!」in青森のレポートを書いたのだけれど、まだ、松山、広島と残っていて、しかも今週は「踊りに行くぜ!!」in大阪、「踊りに行くぜ!!」in別府に行くことになっていて、このままでいくと公演のペースに執筆のスピードが追いつかず昨年の二の舞だ。
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珍しいキノコ舞踊団×ジャスティン・カレオ「3mmくらいズレてる部屋」@愛知県芸術劇場小ホール

珍しいキノコ舞踊団×ジャスティン・カレオ「3mmくらいズレてる部屋」愛知県芸術劇場小ホール)を観劇。
 珍しいキノコ舞踊団が私の前に現れた時、その最初の特徴は「メタダンス」すなわち、「ダンスについてのダンス」というものだった。そして、その後見せてくれたのは「女の子」ダンス、今度は「少女性」の表現としてのダンス。そういう部分はまったくなくなってしまったわけではないが、その作風は「フリル(ミニ)」あたりから転換しはじめて、現在は第3のフェーズにあるというのが、この集団についての私の位置づけである。
 そして、それを端的に示すキーワードとなりそうなのが「ダンスを遊ぶ」である。
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「踊りに行くぜ!!」in大阪@アートシアターdB

「踊りに行くぜ!!」in大阪(アートシアターdB)を観劇。

酒井幸菜 from茅ケ崎 『Noon』 振付・出演:酒井幸菜
玉内集子 from東京 『背中のつぼみ胸が咲いたII』 振付・出演:玉内集子
ピンク from東京 『子羊たちの夕焼けボート』 振付・出演:磯島未来、加藤若菜、須加めぐみ
(途中休憩)
松本芽紅見・森川弘和 from京都 『椅子のある部屋』 振付・出演:松本芽紅見・森川弘和
Ko & Edge Co. from東京  『DEAD 1+』 構成・振付:室伏鴻  出演:目黒大路、鈴木ユキオ、林貞之

 「踊りに行くぜ!!」in大阪の会場となったアートシアターdBは新世界・フェスティバルゲートのなかにあるNPO「DANCE BOX」が運営する関西コンテンポラリーダンスの一大拠点である。前身のTORII HALL時代を含めると、この企画が全国4会場で行われた初回から開催されている数少ない会場のひとつである。
 JCDNの巡回公演「踊りに行くぜ!!」は今年は全国21カ所で開催されて、各会場ごとに個性の違いや運営の形態の違いがあってそこのところが非常に面白い。地方の会場などをここ数年見て回っていて、地域ごとに速度の違いこそあるのだが、地方にコンテンポラリーダンスを普及するという目的に関していえば「踊りに行くぜ!!」はそれなりに機能してきたと感じられる。
 ところでいささか逆説的にはなるが、ここ数年の「踊りに行くぜ!!」を見ていると、そこで逆に難しくなってきたのが、首都圏と関西というすでにコンテンポラリーダンスがまだ一般への知名度や浸透度は弱いにせよ、各劇場で多くの公演が日常的に上演されている場所での「踊りに行くぜ!!」の位置づけで、ほかの地方都市においてはコンテンポラリーダンスの年に1回の「ハレの日」で滅多に見ることができない東京・関西の旬のアーティストをまとめて見ることのできる特別な存在でありえるのが、年間を通じてダンスプログラムを見ることのできる首都圏と関西ではそうではなくて、数多く開催される公演のうちのひとつでしかありえないからだ。
 すでに首都圏においては元々はアートシアターdBと類似のダンスの拠点であるセッションハウスやSTスポットで開催されていた公演を中止して、その代わりにそれらの劇場には有望なアーティストを推薦してもらうという形態で、企画との連関性を維持しつつ、「踊りに行くぜ!!SPECIAL」in東京を立ち上げ、ここにはこの企画全体のなかで優れた成果を残したと思われるダンサー・振付家を数多くの出演者のなかから選抜するという形で、企画自体の商品価値を高め、こうした状況に手を打ったということがあるのだが、それによってただひとつ取り残された大阪をどう位置づけるのかという問題はJCDNにとっても、NPO「DANCE BOX」にとっても大きな課題として残ったわけだ。
  
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「DEATH NOTE  デスノート the Last name」*1(金子修介監督)

金子修介監督「DEATH NOTE デスノート the Last name」 道頓堀角座)を観劇。

監督:金子修介
脚本:大石哲也 原作:大場つぐみ小畑健「DEATH NOTE」
出演:夜神月藤原竜也
L(エル)/竜崎:松山ケンイチ
弥海砂戸田恵梨香
高田清美片瀬那奈
出目川:マギー
西山冴子:上原さくら
佐伯警察庁長官:津川雅彦
松田:青山草太
宇生田:中村育二
相沢:奥田達士
模木:清水伸
佐波:小松みゆき
吉野綾子:前田愛
日々間数彦:板尾創路
夜神幸子:五大路子
夜神粧裕満島ひかり

リューク中村獅童(声のみ)
レム:池畑慎之介(声のみ)

ワタリ:藤村俊二
夜神総一郎鹿賀丈史

前編*1、後編に分けて上演された映画版「DEATH NOTE」の後編である。原作ものの映画でよくあることだが、この映画はストーリーや設定に原作を変更したところがあるということだったのだが、テイストという意味では原作の味をかなり忠実に再現したのではないかと思う。
 前編では顔見せ程度だった弥海砂戸田恵梨香)が大活躍するし、イメージとしてはもう少し我侭ぶりを発揮してもらいたいところではあったが、マネージャー役を務める松田を振り回す場面は原作では第二部以降なのでやむをえないか。監禁シーンでの無駄なエロさはなかなかのもので、物語的に言えばなんで監禁するのに着替えさせないでこの服装のままなのかという疑問は湧くのだが、そういうところはさすが元日活ロマンポルノ出身だけはある金子修介なのであった(笑い)。この人がそうだというのは忘れていたのだが、いくらなんでも「ガメラ」や「ゴジラ」ではそういうところはNGだろうからなあ(笑い)。
原作とは違う結末の触れ込みがあったのだが、それはいくぶんは第一部から原作の第二部のラストに途中を省いて直接つなげているようなところがあるためで、デスノートの論理についてはその枠組みもほぼ原作通り。途中で超絶技巧論理のノートの所有権放棄と交換のくだりは原作の論理のうちで一番面白いところであり、それがここでもそのまま忠実に再現されているのは勘所を踏まえた脚本といえるのであるが、ミステリの謎の提出と結果だけが提示されていることで疑問も若干感じた。原作を読んでいずにこれだけを見て要するにどうなっていたのかが分かる人がどれだけいるんだろう。
原作には登場しない部分がこの前編では一番、デスノート特有の論理が使われているというところに監督、脚本家ともにこの物語の勘所を間違えてはいないとの判断ができ、後半への期待が膨らんだと書いたのだが、この後半でも特にラストにおけるオリジナルのアイデアは秀逸であったと思う。映画を見ていた時にはしばらくの間、意味が分からなかったのだが、相手の手にデスノートがあって、自分の名前を知られていてもそれでも相手の手にはかからない方法の発見。表題の「the Last name」というのはそういう意味があったのかということに改めて気がついた時には「この脚本家は凄い」と感心させられた。結局のところ、原作の漫画の最大の欠陥は知的な面白さはレベルが高いのだけれど、主人公である夜神月にも、その好敵手であるL(エル)にも感情移入がしにくいところで、そこが映画としてどうなんだろうと思っていたのだが、この結末はアイデアとして原作には出てこないけれど確かにそうだということに加えて、それを実行に移すことでLという存在に原作にはない深みを与えている。
 もっともその後で冷静になってもう一度考え直してみると、キラに対して罠をしかけるところで「それができるのなら、もう少し別のやり方があるのじゃないか」と思ったりもしたのだが(笑い)、その時には鮮やかな幕切れにそういうことにはすぐには目がいかない、というのはすぐれたミステリ小説と同工のレトリックが使われているということだと思う。
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「踊りに行くぜ!!」in別府@ブルーバード映画館3F

踊りに行くぜ!!in別府(ブルーバード映画館3F)を観劇。

宇都宮忍「エイムデプス」振付・出演 宇都宮忍 /出演 高橋砂織
三浦宏之「SAD MAD HEAVY MOON」振付・出演:三浦宏之
坂本公成+佐伯有香「怪物」演出・振付:坂本公成  振付・出演:佐伯有香 作曲:真鍋大度 照明プラン:川島玲子
砂連尾理+寺田みさこ「ユラフ」構成・演出・振付・出演:砂連尾理+寺田みさこ

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BABY-Q「GEEEEEK」@HEP HALL

BABY-Q「GEEEEEK」HEP HALL)を観劇。

構成・演出・振付:東野祥子
出演:樋口洋子/上月一臣/MINGO/山本泰輔/ケンジル・ビエン/寺西理恵/石井宏/Pee/下条明香/東野祥子
音楽:RAZ MESINAI/中原昌也/他 
映像:THE RKP a.k.a. ロカペニス 
美術:DESTROYED ROBOT/SUBTERRANEANS/dacchin' 

BABY-Qの東野祥子による新作。10月に東京のシアタートラムでワーク・イン・プログレスの公演を見たがいくつかの理由でそれとはまったくの別物といっていい舞台となっていた。
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